時代風俗考証事典
先日、吉祥寺に眼鏡を作りに行き、待ち時間に「百年」という古本屋さんで時間をつぶしていた時、林美一著『時代風俗考証事典』を見つけて972円で買った。こんなに分厚いのにこの値段。この本の存在は前から知ってはいたが、事典だと思い込んでいたのと、「どうせオレは細かく描き込むタイプでもないし、時代考証もだいたい雰囲気出てればいいだろう」という思いから、探して求めることはしなかった。ところが、読んでみると、読み物として大変に面白い!
林美一さん(1922年 〜1999年)は浮世絵春画の研究家として、その名は知っていたが、脚本家修行までやっていたとは知らなかった。なんでも、子供の頃から時代もの好きで、古典趣味から文楽マニア、江戸文学マニアに走り、果ては時代小説作家になろうと考えたり、時代映画のシナリオライターになろうとして大映京都撮影所に十年余りいたこともあるそうだ。
林美一さんは、昭和43年にテレビドラマ『伝七捕物帳』の時代考証を頼まれる。これが時代考証の最初の仕事だ。
この本が面白いのは(といっても、まだ5分の1くらいしか読んでいないが)実体験に基づいた努力と苦労が書かれているからで、そこが他の時代考証本とは違うところだ。
〈そもそもドラマの時代考証とは一体なんであろうか?この言葉を初めて使ったのは、どうやら大正十五年に、溝口健二監督が日活で酒井米子主演の『狂恋の女師匠』を撮ったとき、小村雪岱画伯が髪や衣装のデザインをしたのを、時代考証と名付けたのが最初だというが、くわしいことを知らぬ〉
おっと、読み進めていたら、我らが小村雪岱の名前が出てきたぞ。小村雪岱や木村荘八は映画の時代考証もやっていたことは知っているが、そのしょっぱなにいたとは。
〈それにしても実に奇妙な肩書きだと思う。初めの考案者はそんなつもりではなかったのだろうが、何しろ「考証」というのだからひどく堅苦しい。一分一厘の誤りもゆるがせにしない、コチコチの学問的なものを感じさせる。考え出したのが映画界であるから、多分に作品に権威づけるためのハッタリもあったのだろうが、この考証という字句にとらわれて、全く融通のきかないことを言う人がある。学者にそれが多いのは、そのためである。例えば三田村鳶魚氏は「いずれの時代にしても、いかなる書き方であっても、時代ものでは、その時代にどうしてもないことがらや、あるべからざる次第柄は、何といっても許すことができない」といわれる。むろん三田村氏の時代に時代考証という考え方はなかったが、考え方としては同じである。この考えは学者としては当然そうあるべきことだとは思うが、フィクションである小説やドラマに対して言う言葉ではない〉
三田村鳶魚は江戸学の始祖で、この人の仕事なしに江戸の時代考証はない、みたいな方だが、三田村さんが吉川英治の『宮本武蔵』に対して、「慶長に蕎麦はない」などと色々と手厳しく考証的批評を加えたことがある。
ところが、吉川さんは版を重ねる時も、いっこうに誤りを訂正しなかった。予算やスケジュールに振り回される映画やテレビと違って、筆一本で直せる小説であるにもかかわらず。それがいいのかよくないのかは、「宮本武蔵」をちゃんと読んだことのない私にはわからないが、学者の態度で時代考証にのぞまれてはやるせない部分はあるだろう。
映画やテレビの時代考証は大がかりだけど、小説は筆一本で直せる……挿絵も小説と同じく筆一本でどうとでもできるわけだ。ギクッ!
視聴者からの投書というのもこの本には紹介されている。時代考証的にはもっともな指摘だとしても、例えば『伝七捕物帳』みたいに、そもそも岡っ引きが江戸の町のヒーローという設定自体ありえないわけで……時代考証はどこを基準とすれば良いのだろう。そのあたりの林美一さんと投書のやり取りも面白い。
小説、ドラマ、映画はすべてそういった矛盾を抱えているし、現代に時代物を作る意味というものは、その矛盾の中にも見つけられそうだ。
〈(前略)近代演劇のリアリティとはそういうものなのである。いかにお芝居を本物らしく見せるか、というだけのことだ。だから事実の忠実な記録よりも、フィクションである小説が、より忠実に事実を再現し得ることがあるように、時代考証もまた、忠実な過去の時代の再現のみが方法ではなく、ドラマに合致したフィクション的考証が要求されてしかるべきだと思うのである。
事実どおりの過去の時代の再現なんて、絶対にできるものではない。
できないとわかっているが、わかりながらも、それをできるだけ効果的に本当らしく見せようとする考証的な技術、それがドラマの時代考証ではないか、と私は思うのである。もちろんフィクションの基礎となる事実の調査は徹底的にやらなければならないが、それをそのまま再現しろというのでは、ドラマの時代考証ではない〉
さっき言ったように挿絵の場合、筆一本で描けるが、逆に言うと俳優も演技もセットも照明も小道具も……すべて一人でやらなくてはいけないので、本当の時代ものが描ける人というのはごくごく限られている。
もちろん、私はぜんぜん描けていない!ぐわはははは!雰囲気は出したいと思ってるんですけどね、雰囲気は。小説の持っている雰囲気とその時代の雰囲気。でも、時代考証的なことでいうと、かなりいい加減だと思います。
まぁ、編集者もそれを指摘できるわけじゃないから、今の挿絵はデタラメが野放し状態かもしれません。
というわけで、この本を読んで、ちょっと時代考証の勉強でもしてみようかなという気になったから、こんなにツラツラ書いたのだ。
もう、この本は読む端から冷や汗が流れてくるのである。例えばこんなところに。
〈私は時代劇の考証の尺度を、いつも燗徳利の有無によって知ることにしている。どのドラマにも飲食の場面が出ないことはまずないから、一ばん判定に便利だからだ。燗徳利は後で述べるように、一般に普及しだしたのは江戸時代も末期の天保の末頃だからである〉
〈現在映画やテレビで作っている時代劇はほとんど燗徳利一点張りだが、その点すべて間違っているということになる。その燗徳利も第二十九図のように口の広い(原文ママ)素朴なものが良いが、大抵は口に猪口をくっつけたような第二十八図の燗徳利である。この徳利は戦後昭和二十八〜九年頃から、にわかに流行りだしたものであるから、時代劇はもちろん、昭和物でもこれ以前の時代には絶対に使ってはいけない〉
そしたら、怪しい燗徳利が出てくるわ、出てくるわ。
でも、オレはこれからは燗徳利の口は太く描く、そう決めたぜ。これを読んだみんなもそうしようぜ!