伊野孝行のブログ

似合うか似合わないか

石田衣良さんの「スイングアウト・ブラザース」のカバーを描きました。私が石田衣良さんの本のお仕事をするとは、思いもよらないことだったんですが、内容を聞けば納得。ちょっとダサい男子たちのお話だったんですね。自分たちではそこそこイケてると勘違いしてる彼らが、モテ男への高く険しい道を目指してドタバタするお話。
ちょいダサならお任せください。私自身がそうなんで。

話をオシャレに限っていうと、着るもの自体よりもそれが「似合う、似合わない」の方が重要なんですけど、似合う、似合わないっていうのは何なのでしょうか。

自分の顔が、濃い顔で、もみあげやヒゲなどもふんだんに生えていたら、自ずと着るものの方向性も変わってたはず。
勝新が中南米のファッションに身を包んでもまるで違和感がないですが、私が着ればおかしいでしょう。
「伊野くんは、中国は清の時代の辮髪の格好したらぜったい似合うよ」と言ってくれた人もいます。
しかし、いくら似合ってもそんな格好では歩けません。着物だって、着るのに勇気のいる時代なんです。

我々の民族衣装であるところの着物を着るにも理由がいる時代に生まれた不幸を恨みます。

時代劇が好きな私は、着物を着た時に身体をどう動かせば、カッコよく見えるかはある程度わかるようになりました。
立体的な縫い合わで作られている洋服と違って、着物は一枚の布で身体を包んで帯で締めているだけ。
布の中にある身体の形が、外の形を作るわけですが、そのまま形が出るわけではない。身体がこういう形のとき、身体を包む着物にはこういう形が表れる、というのがわかる=着こなせるのではないかと思います。
よく若旦那が袖に手をちょっと隠して、やや腰を引き気味に、つま先から先に歩くような仕草も、着物を着ているから様になるわけで、あれを洋服でやったらマヌケです。
花火大会で見かける若い男の子の浴衣姿は、帯の位置がおかしいのもあるけど、洋服の時と同じ身体の動かし方だからヘンテコに見えるのです。あれもかわいいといえばかわいいけど。
着物は相撲取りのように恰幅がよくないと似合わないと言う人もいるけど、私はそうは思いません。
だってあんなに太ってたら、身体の形がそのまんま着物の形になってしまうではないですか。
身体にぴったりフィットしない着物だからこそ出来る形が面白いのです。(これは妖怪変化した私の着物姿ですが、着こなしている例としてあげたわけでは決してありません。ではなぜ写真を載せたのでしょうか。深く突っ込まないように)
話を戻しましょう。

この世のすべては、似合う、似合わないで大きく説得力に差が出るのです。

昔はどうしても似合わなかったものが、今なら似合うということもあるし、その逆もある。
似合うまでに努力を必要とするのもあるし、なんの苦労もなく似合ってしまうものがある。
「君はイラストレーターになれるよ。うん、そういう雰囲気あるから」
と安西水丸さんに言われて、予想通りそんなに苦労もせずにイラストレーターになった人が友人にいます。
池波正太郎は一人で旅に出ると、あえて職業を名乗らずに、相手に当てさせ、刑事さんですか?呉服屋の旦那さんですか?と言われて「よくわかったね」と演じつづけた様です。『食卓の情景』にそのようなことが書いてあったと記憶します。確かめていません。
私がイラストレーターになるのにとても時間がかかったのは、似合わなかったのでしょうか。そして今の私はイラストレーターらしいのでしょうか。
「あなたの商売、いったい何なの」と聞かれる時は必ず脈がある、とこれは長沢節先生のエッセイに書いてあったのですが、もし本当ならイラストレーターらしくない方が私はモテるということになります。

ところで、オシャレというのは、しすぎると頑張ってる感が出るし、もっと困ったことに、オシャレしすぎて、バカに見えてしまうこともあります。
バカに見える場合は、着飾った外見が、内面の空虚さを引き立ててしまったということなのでしょうか。

長沢節のファッションは独特すぎるのに頭もよく見えるのでした。

似合う似合わないなど気にしないくらいに、やっちゃうのが痛快のような気もしてきました。

もう一度言いますが、私はオシャレではないし、センスもないので、その程度のヤツが言ってることと聞き流してください。