絵の迷い道
イラストレーションの仕事は、向こうからテーマが与えられる。
原稿を読み、読者が記事や物語を思わず読みたくなるような切り口を探し、一番ふさわしいと思う絵を描く。
イラストレーションの仕事は相手に合わせることだが、テーマを「問い」だとすると、絵は自分にしか描けない「答え」になっていなければいけない。
仕事のテーマというのはまちまちだ。時々編集者の気まぐれかとも思える注文を目の前にし、どうして俺に頼んだのだろうと、途方にくれることもある。
しかし締め切りまでに描かなくては。
まずは、こびりついた「自分印のスタイル」を剥ぎ取ろう。そしてテキストと自分の間から絵が生まれてくるのを待つのだ。
相手から与えられるテーマとは別に、自分が追っかけるテーマというのがある。作り上げたスタイルは、自分のテーマが最も伝わる表現方法だったはずだ。
でもテーマを忘れてスタイルだけが形骸化してやいないか。
テーマをいろんな言い回しに言い換えることも、実はできる。
そうすれば、いろんなスタイルを使いこなせる。自分にテーマがあるからこそ、どんな球が来ても打てるのだ。自分にテーマがないのに、球を打ち返していると、「器用貧乏」と言われる。
ところが、最近、球を打ち返すことに一生懸命になりすぎたかもしれない。
引き出しが増えたと思っていたけど、肩透かしや猫だましだったのかもしれない。
お題はこなしている。球は打ち返している。でも、なんとなく絵が物足りないような……あ、もしかしてこれは器用貧乏に足を突っ込んでいるのかもしれない。最も自分が嫌だと思っていたはずなのに。
いつも同じスタイルで描くことは嫌だ、俺が描く絵はなんでも俺の絵なんだから、自由に描きたい!と思っているけど、いつの間にか、人に好かれていい子になっているだけのような気もしてきた。
イラスト仕事の特性とうまく利害が一致してしましい、気がついたら全然ワガママを言っていなかった、って感じ。
最近そんな気持ちによくなる。
自分にこんな絵が描けたんだ、って思えた時はこのやり方はいいと思う。新しいテーマが見つかる時だってある。でもうまくいかない時は、なんだ、こんな絵俺じゃなくても描けるじゃねえか、と思ってしまう。絵の中に俺がいない。
来週あたり、熊谷守一展を見ようと思っているので、青春のように悩んでいるのかもしれない。よし、俺は60歳になったら、スタイルを一つに絞るぞ!(たぶん、ムリ)去年暮れから「オール読物」で始まった大島真寿美さんの連載。時代物は楽しんで描ける。「小説現代」の読み切り。すごくいい短編小説。読み終わってウルウルしてしまった。今の時代の子どもの話。時代物とはわけが違う。あぁ、どうしよう。3回くらい描き直した。伊野印はどこにもないので、名前を隠したら誰が描いたかわからないかもしれない。「オール読物」の読み切り。平岡陽明さんの時はいつも声をかけてくださる。そしていつも小説に合わせて絵も変えている。大島真寿美さんの連載と同じ号に乗るので、そことも絵柄を変えたかったが、いろいろやった挙句迷ってしまった。