時代考証秘話その1
先週の歴史秘話ヒストリア「神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!ニッポンの信仰心」はご覧いただけましたか?
神仏習合を正面から取り上げた画期的な番組でした。しかも内容が神回、いや仏回?と言ってもいい素晴らしい出来でした。自分の参加した番組をそんなに褒めるなって?いや、でもマジですごく面白い番組だったから褒めさせて。
番組を見て私はしみじみ思いました。
神仏習合とはいい加減をええ加減に保つように工夫し努力してきた日本人の精神史そのものだと言っても過言ではないでしょう。
なかなか難しいテーマかもしれませんが、この番組をきっかっけとし、神仏習合で5時間くらいの特番を作って欲しいです。
さ、今週はけっこう大変だった時代考証を交えながら、アニメのために描いた絵を紹介しましょう。苦労したからブログのネタとして引っ張るぞ〜。
しばらく先週アップした絵と同じのが続きますがご容赦を。
まずこの絵に描かれたのは古墳時代末期(5世紀〜6世紀前半)の祭祀の様子です。
場所は今の三重県の北部、桑名の多度です。多度大社のある場所です。その昔は神社の建物はありませんでした。
大きい岩は岩座(いわくら)と言ってこの前で祭祀をとりおこなうのです。
巫女がもつのは鉄鐸です。これは実際に発掘されたものがあります。たぶんこういう風にジャラジャラ鳴らしていたのではないかということです。
日本書紀を書き換えたバージョンの一つ「古語拾遺」には、天の岩戸の前で、アマノウズメが「矛に鉄鐸を付けて樽の上で踊った」とあるそうです。そういうところからもイメージしたりして、古代祭祀の様子を描いていきました。お供え物もどこらへんにあるかははっきりわかりませんが、たぶん岩座の周りではないかということです。器の発掘事例でいくと、壷のようなものやたかつきのようなものはない。酒など液体を入れるには漆の木器はあったかもしれない。魚やアケビなどの木の実、穀物が土器に盛られていたと考えられます。
こちらは仏教伝来の絵です。
日本書紀によれば552年。
欽明天皇が百済からの使節に謁見しています。この当時は天皇という呼び名ではなく大王(おおきみ)ですね。
時代は少し下りますがモッくん主演のドラマ「聖徳太子」をある程度参考にしています。でも、絵は簡略化してるので、だいたいなんとなくです。欽明天皇の冠とか、なんとなくこんな感じ?って。一応埴輪が当時の姿をかたどってはいるようですが、デフォルメされているのでよくはわかりません。天皇が座ってる椅子も実はややテキトウ。
経典は紙ではなく、木(竹だっけ?)です。仏像は船形の光背がついたお姿だったようです。これだって欽明天皇に贈られた仏像が残っているわけではないので、たぶんこういうのだっただろうってことね。さて、場所は多度に戻りますが時代は763年。
以前は何もなかった岩座の上に見世棚造の小型社殿が置かれています。それらを朱塗りの垣が囲んでいます。お供え物は八足台の上にあります。だいぶ変わりましたね。これとて資料写真があるわけではないので、建築考証の先生のご意見を伺いながら描いております。
そうだ、建築の考証の先生は私の高校の先輩だってディレクターから聞いたな。センパイお世話になっております。巫女の髪型はどうでしょう、こんなので良かったかな?巫女の前にいるのは豪族ですが、豪族の服の色は装束の考証の先生からの指示があります。多度の聖なる杜の中を歩いてくるのは、満願上人という神仏習合の歴史おけるスーパー僧侶です。満願上人の立ち姿として参考にしたのは興福寺の十大弟子像。くるぶしくらいまでの僧服の上に「九条袈裟」というものをまとっています。また、この袈裟のまとい方ってのが仏像や写真じゃよくわかりにくいんだ。袈裟の色もいろいろあるが、ここは無難にブラック&ベージュにしておけば問題ないだろうということでした、ディレクターはこの袈裟を調べるために、装束考証の先生の指示で「袈裟史」というシブい本を読んで勉強されたということです。大変だー、ちゃんと仕事をするのは。
満願上人は神の住まう山の木を切って、小さなお堂を建てた。その後、地元の豪族たちが鐘や塔を寄進して、神社の聖域の中に神宮寺が建てられた……というのをだんだん建物が増えていく様子で現した絵。この絵に至るまでに何回も考証の先生とやり取りをしていたのですが、結局番組の尺に収まらなさそうということで、ラフ止まりで本番の作画にはいたりませんでした。
いかんいかん、この調子で紹介していくと4週くらいに渡ってしまいそうだ。当分ブログのネタに困らないけど、誰かついてきてくれる人はいるでしょうかね……。来週も続けていいかな?いいとも〜!