寺山修司狂い
発売中の「イラストレーション」の「宇野亜喜良プロダクト」というコーナーで絵を描かせてもらった。この連載は、宇野さんが「竹尾」(紙の会社)とコラボして、誰かに何かをやらせるコーナーである。今回は寺山修司の4つのアフォリズムに4人の作家(城芽ハヤトさん、花代さん、安藤晶子さんと私)が絵や写真をつけた。わたしは〈 実際、「出会い」はいつも残酷である。しあわせに見える出会いの瞬間も、まさに「別離のはじまり」であると思えば、むなしいものだ。〉というアフォリズムの絵を描いた。この絵のコメントとして次のような短い文章を載せた。
〈高校から大学にかけて、ぼくは寺山修司(すでに故人だった)に狂っていた。寺山修司のマネをして全然似合わないトレンチコートを着たりしていた。思い出すとすごく恥ずかしい。宇野さんが選んでくれたこのアフォリズムも覚えている。絵はアルルのゴッホとゴーギャンの出会い。そして寺山修司といえば「のぞき」である。
今回の楽しみはもうひとつある。ふだん水彩で描く時は「マーメイド」を使用しているのだ。マーメイドに描いてマーメイドに刷るとどうなるのか……とてもしっとりしていいかんじだ。〉
…そう、高校生のときにテラシュウにやられてしまった。ちょうどそのときは寺山修司もいったん忘れかけられていた頃で、著書も文庫本を3冊くらいのぞいてほとんど絶版だった。新聞のテレビ欄で「田園に死す」を見つけたときには、やった!と思った。深夜の放送だったのでビデオ予約して(予約時間を何度も確認した)寝たのだが、野球が延長になっていて、録画は途中で終わっていた。ますますテラシュウへの飢えは高まるのであった。その後、大学で上京すると、さすがは東京、本もあるし、名画座やミニシアターで映画もほとんど見ることができた。大学四年のときだったか、ちょうど没後10年という節目が訪れて、再評価されはじめた。そしたら急に憑き物がおちたように、わたしの寺山修司狂いもおさまってしまった。自分の中でも、ちょっと恥ずかしい青春の1ページとして存在しているので、めくりたくない気もするのだが、今回の企画はまことに感慨深い。宇野亜喜良さんからの依頼ということが、ますます感慨深い。ネット上から拝借してきた画像だが、この寺山さんと宇野さんの写真は何度も眺めていた。カッコイイ!
このあいだ、「田園に死す」がyoutubeにあったので久しぶりに見てみたが、やっぱりオモシロイ。小川を雛壇が流れてくるシーンは、俺の血をたぎらせる。
ちなみに、今回、竹尾が提供してくれた紙は「マーメイド」でふだん私も水彩を描くときに愛用している。それはなぜかというと、セツの購買部で売っていたのが「マーメイド」と「タッチ」の2種類で、なんとなく使い慣れていたから。しかし最近は「シリウス」という水彩紙が使いやすい。和紙もそうなんだけど、水彩紙も種類が多くて、自分にマッチするのを探すのにひと苦労する。
さて、もうひとつ。今回の「イラストレーション」ではTISのページで「肖像権」をあつかっていた。「有名人を描くときにどんなことに注意すればいいのか」という内容。弁護士の先生の回答も載っているが、それはさておく。このページをとりしきっている影山徹さんに好きにコメントしていいよ、といわれたので
〈「風刺」はイラストレーションや漫画にとって、自分たちの出自をたずねれば、かならず出会うものです。とても大切なもののわりにないがしろにされている感じなので、いちど「イラストレーション」誌で大特集して欲しいです。「風刺」というと政治風刺漫画を思いうかべる人がいると思いますが、歌川国芳がやった遊びのように幅広く楽しく考えていいし、和田誠さんのパロディ、山藤章二さんのカリカチュア、南伸坊さんの顔マネもそう。言葉におきかえるのがもったいない絵としてのニュアンスのなかに批評性がある。
そういうのはまさしく「文化」で、作るほうと見るほうに「常識」があるから楽しめることなんです。似顔絵や肖像画は、広告や商売目的に使うような場合をのぞいては、イラストレーションの仕事のなかで自由に描いていいと思います。なにが問題なのかな?「肖像権」があるから描いてはいけない、なんてことがあったらヘンな世の中ですね。非常識だと僕は思います。「法律」も「常識」も文化を背景としてできあがっているものなのに、法律のものさしで文化を測るというのがおかしいと思うからです。〉