伊野孝行のブログ

江戸しぐさの違和感

購読している新聞の日曜版に「松尾貴史のちょっと違和感」というコラムがあり、毎週楽しみにしている。今週は「江戸しぐさ」への違和感が書いてあった。読み進めると

〈精神科医の香山リカさんから、「江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統」(原田実著、星海社新書)という本を読んだかと聞かれて、ずっと釈然としないものを持ち続けていた私は早速本屋で購入した。なるほどそうだったのかという思わず膝を打つような話が凝縮されていて目から鱗、すこぶる面白かった。本書によると、この奇妙な行儀作法の「流儀」が生まれたのは江戸時代ではなく1980年代あたりだとのことらしい。〉

…とある。なんと「江戸しぐさ」は捏造されたものだったのか!近頃は文部科学省や学校まで「江戸しぐさ」を推進している。

じつは、わたしも2、3年前にある雑誌で「江戸しぐさ」の絵を描いたことがある。

「江戸しぐさ」はそのときはじめて知った。今にも通じるというか、通じすぎるマナー内容で、なにか説教臭くて興味をもてなかった。(わたしが江戸時代に興味をもつのは、むしろ現在とはちがう価値観があるからだ。)しかし、とくに疑いをもつこともなく、せっせとイラスト仕事に励んだわけであった。

雑誌が出てから、「江戸しぐさ」の絵をブログにアップすると、仕事の依頼が2件きた。「江戸しぐさ」はわたしに仕事を運んでくるいいネタでもあったわけだ…。

事の真相がわかった今、おおげさに言うと歴史の捏造の手助けをしたようで、申し訳ない。というわけで、今回は自分の描いた絵につっこみを入れることで罪をあがないたい。もちろん参考文献は「江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統」である。
「傘かしげ」雨の日に、お互いの傘をかしげて道を行きかうしぐさ。←江戸末期にようやく傘は庶民にも普及しはじめたが、それでも贅沢品で、ふつうは蓑や笠を雨具としてつかっていた。浪人が内職で傘張りをするのも贅沢品で身入りがよかったからだとか。
「肩引き」「傘かしげ」と同様、気遣いの心を体現したしぐさ。人とすれ違うとき肩をひきながら歩くこと。←見知らぬもの同士、お互い敵意がないこともあらわすしぐさだそうだが、実際、男同士でやってみると体を斜めにし、目配せするのは、かえって威嚇しあっているようにしか見えないという。
「七三歩き」自分の歩く幅を道の三割にしておき、残りの七割は緊急時の時や、他の人のためにあけておくこと。←浮世絵に描かれたどの往来を見ても、人々は勝手気まま、てんでバラバラに歩いている。車社会の常識を江戸時代に適応させたものだろう。「こぶし腰浮かせ」船に乗るとき後から来る人のためにこぶし一つ分腰を浮かせて席を作ること。←江戸時代の渡し船には腰をかける座席のようなものがそもそもない。船の大きさによっては馬も荷物もいっしょに乗っている。そんな中、乗客は底板にしゃがむように乗っているのだから、腰をすこし浮かせてバスの座席をつめるような動作はおこなわれず、いったん腰をあげたほうが合理的。(わたしの絵では気をきかせて、すでに腰をあげてしまっているが…)「時泥棒」相手の都合を考えず、家を訪ねるなどして、相手の貴重な時間を奪うことを戒めている。←これには松尾貴史さんの反論が至極まとも。「電話などの普及以降の話であって、とてもではないが江戸時代の発想とは考えにくい」

たとえマナーとして良いものでも、歴史を捏造したものを根拠にするのはよくない。「江戸しぐさ」で画像検索すると、まず山口晃さんの描かれた素晴らしいポスター画像が出てきて、後の方でわたしの描いたたいそうカンタンな絵も出てくる。ちなみに原田実さんは〈山口画伯は公共広告機構のCMで多数の「江戸しぐさ」イラストを発表したが、そのいずれもが昭和の風俗として描かれているのは興味深い。〉と記している。