わたしと街の物語 ①
さて、今月23日からはじまる展示について本格的に宣伝させてもらいましょ。テーマはタイトルになっているように「わたしと街の物語」です。19年間通っていた神保町のことを描きます。なぜ通っていたかというと、バイトしてたんですね。それも同じ店でず〜っと。途中で一度無職の期間があったり、数ヶ月他の街で働いたこともあるけど、ほとんど家と神保町の往復だけで生活しているようなものでした。これはDMに使っている絵です。向かって右が今現在のわたしで、左が23年前のわたし。バックは「すずらん通り」をイメージしてるけど実際の街並とはちがう。絵の雰囲気はバルテュスが6割型描いたところでやめちゃった…みたいなことになってますが…。親しくしている友だちでも昔のボクだとわかってくれない人が多い。きのう、親から電話がかかってきて「これ、孝行か?わからんだわ〜」と言っていた。似てないわけではなくて(すごく似ている)ずいぶんと変わっちゃったんだなぁ…いろいろ。
え、さて。
わたしは展示をする時にこころがけていることがある。それは橋本治さんの次の一文が言い尽くしていると思うので、抜き書きしてみよう。
〈江戸時代の観客の喜び方というのは、一つです。今とおんなじといってもよいでしょう。つまり「新しい!」です。
「この趣向は新しい!」源頼朝が手習いの師匠になって振り袖娘にスケベなことばっかりするという趣向は新しい。そのことによって「新しい!」という発見をした以上、それを言う以前の自分は、その新しさに気がついていなかった。つまりその新しさによって見る側は「なァるほど!」と世界観の修正を迫られる。「昨日の私はバカだった」ということを知るんですから、笑うべきは対象は自分です。〉
橋本治「大江戸歌舞伎はこんなもの」より(↑とある展示作品の部分)
自分が「おもしろいなぁ〜っ」て思うものは、かならず自分にとって新しいのだ。古い時代の作品を見てそう思うこともある。きっと新しいこころみを試した人のウブな気持ちが、獲れたてピチピチの鮮度で作品の中に保たれているのだ。逆にいかにも新しい顔を装った退屈な作品もある。仕方がないが自分には新しい発見がなかった。もしくは出来なかったということになる。(↑とある展示作品の部分)
で、今回の新しい趣向のひとつはこれだ。まず、絵を描く前に作文を書いた。原稿用紙で30枚弱。タイトルは「ぼくの神保町物語」という。絵を描くときのテキストになる。といっても、作文の挿絵を描くわけではないので、文章は文章、絵は絵でまた別の表現になるはずだ。ちょっとデカいたとえ話をすると、ゴッホの絵にたいして「ゴッホの手紙」はテキストになっている、と言えるかもしれない。(↑作文の原稿。でもこれはやらせ。ほんとはワードで書いている。)
わたしは自慢というのが苦手でほとんどしないのだが、今回は宣伝のために嫌々してしまうのだが…作家の関川夏央さん(トークショーのゲストである!)がたいそう誉めていたそうな…。この作文は冊子にする予定。
(来週につづく)
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Vision’s presents The Illustrator’s Gallery Vol.3 わたしと街の物語その1 伊野孝行+大河原健太「神保町とロンドン」