興福寺火事絵巻その3
興福寺火事絵巻、今週はその3!
火災から6年後、建設中の中金堂の前庭を裹頭(かとう)した衆徒が埋め尽くしております。再建の中心に立ったのは、衆徒堂衆たちでした。
ここで豆知識。武蔵坊弁慶やいわゆる僧兵たちがかぶっているのは、実は袈裟なのです。それを裹頭と言います。
議題は再建工事に必要な人夫の確保でした。時は鎌倉、武士の時代。平安時代のように朝廷や藤原氏が全面支援してくれる時代ではありませんでした。
そうなのです。人夫を出すことを拒否した寺社の荘園は、決議どおり、衆徒たちによって焼き打ちされたのでございます。ベンベン。
こうして衆徒は時に武力を行使して再建のための人とカネを集め、 1300年に落慶法要にこぎつけました。 焼失から23年6か月がたっていました。
こうして衆徒は時に武力を行使して再建のための人とカネを集め、 1300年に落慶法要にこぎつけました。 焼失から23年6か月がたっていました。
これが5回目の火災の顛末でした。
しかしその27年後、またまたまたまたまた6回目の火災が起こるのでございます。
鎌倉時代末期、興福寺では内部抗争が激化。堂衆の武力が寺の中の勢力争いに使われたのです。
そしてなんと!ナント!南都!あろうことか興福寺の境内で合戦が始まったのでございます!ベンベン!
さあさあ、中金堂で合戦がはじまった!
6回目の火災は僧自らが燃やしてしまうという…あぁ、後悔先に立たず。興福寺後に建たず。
しかし時代は急速に変化します。火災の6年後1333年に鎌倉幕府が滅亡。やがて続く南北朝の戦いで再建作業は進みません。
1392年足利義満が南北朝の合一を果たし、ようやく平和の日々が戻ってまいります。
3年後、再建工事の続く興福寺に義満がやってきました。
これは寺にとっては援助を頼む絶好のチャーンス!
「義満おもてなし計画」のひとつには世阿弥の舞もありました。
世阿弥の舞のパートはパラパラ漫画みたいに描いたので、試しにGIFアニメにしてみました。ただつなげただけなので本当はこういう動きじゃないけどね。
世阿弥の肖像画は残っていませんが、ものすご〜くイケメンだったとのこと。
はい、この絵は使い回しじゃございませんよ。前回の絵と見比べてください。中金堂の屋根が大きくなって、勾配もきつくなっているのです。屋根の高さも高い。気づかなかったでしょう?気づいたら相当の興福寺マニアだぜ。
現存する東金堂はこの室町の再建です。ほら、東金堂も屋根の勾配がきついでしょ。東金堂は中金堂の16年後、そして五重塔は約30年後に建てられたのです。今、我々が見上げることのできる五重塔を、世阿弥も見上げたに違いありません。この時世阿弥は60を過ぎています。
「命は終わりあり。能には…興福寺には…果てあるべからず」
そう、一言つぶやいたかもしれませんね。
「興福寺 七転び八起き」ということはあと一回燃えるんですが、今週はちょうど時間となりました。ベンベン!