笑ってなんぼじゃ!(終)
日本農業新聞で連載していた島田洋七さんのハートフル自伝エッセイ『笑ってなんぼじゃ!』。連載が終わったのは去年の秋でした。あれからすでに半年以上経ちましたが、アップしないまま宿便のように残っていた挿絵をアップします。下手な挿絵は臭いものに蓋で、アップしません。まあまあうまくいったのだけ。吉本芸人も何人か描いていますが、昨日の吉本興業の記者会見を見て、そうだ今週のネタはこれにしようと思ったわけではありません。でも、挿絵を最後まで紹介し終えてスッキリしました。ちなみに島田洋七さんは漫才ブームの時は吉本を辞めていて、その後新幹線の中で偶然会った林会長直々に「ぼちぼち帰って来いひんか?」と言われて戻り、そのあとまたお辞めになり、今はオスカープロモーション所属です。
澤田さんは、俺らに声を掛けてくれた。「いつかゴールデンタイムで漫才やろな。そのときは、絶対に出してあげる。いや、ほんま。約束するよ」澤田さんといえば、あの有名な番組「てなもんや三度笠」を演出されたことでも知られている人。その澤田さんにそんなふうに言うてもろて、俺らは舞い上がった。 夜9時になり「花王名人劇場」が始まった。3組しか出てないから、1組の持ち時間が長い。20分近く何度も俺らの顔がアップで映る。周囲のお客さんがだんだん、テレビと俺らの顔を見比べるようになった。「ちょっと、あれ、あんたらやんか」「何してんねん、こんなとこで」「いや、あれ録画ですから」「おもろいな! あんたら売れるでー」戸崎事務所に入って3カ月後の給料日のことやった。当時、給料は手渡しやったんやけど、社長が「お疲れさん」と俺に差し出した封筒が、やたら分厚い。中を開けてみたら、なんとなんと、504万円も入ってたんや!「帯って何? 着物の?」ボケたんちゃうよ。月曜日から金曜日まで、同じ番組を同じ時間帯に放送する番組を「帯番組」て言うなんて、ほんまに知らんかったんや。後の「笑っていいとも!」の前身となる「笑ってる場合ですよ!」の総合司会に抜てきされた。俺は緊張しまくって何を話したんか覚えてないんやけど、俺らがしゃべっている間、裕次郎さんの後ろでずっと直立不動で立っていたのが渡哲也さん。「哲ちゃん、コーヒー入れてあげて、もう冷めているから」えええっー。渡哲也さんが哲ちゃん?
俺は急に売れだしてお金がいっぱい入ってきたけど、経理のことなんかさっぱり分からん。銀行にいくらお金があるのかも分かってないくらいやから、お金のことはほったらかしにしていた。そんなとき、テレビ局で会った加藤茶さんから聞かれた。「売れてるねえ。税金対策、ちゃんとしてる?」一生忘れられんのが、たけしと会ったころの話。「もし今、金がいっぱいあったら何に使う?」と、たけしが聞いてきた。「サバ丸ごと一匹買うて、食いたい」。子どもの頃からずっと貧乏してた俺は、サバといえば切り身しか見たことなかったから、とっさにそう言うた。たけしとの思い出は山ほどあるけど、やっぱり強く印象に残っているのが、石垣島かな。あのときたけしは、世に知られる”フライデー事件”の裁判中やった。マスコミの目を避けるために、あいつは沖縄の石垣島に身を隠してたんや。俺は何度も石垣島に足を運んだ。そうや、俺はもう頂上を十分に堪能した。写真もようけ撮った。自分で下りてきたらええんやな。そう思たら気持ちが楽になって、洋八と相談してみたら、あいつも俺の気持ちを分かってくれた。「またチャンスがあったら、一緒にやろう」たけしが先にシャワーを浴びたときに、俺はわざと湯船にお湯を入れんと「湯、沸いてるで」と言うてやった。しばらくして風呂をのぞくと、入っている。「ああ、いい湯だなー」とタオルで顔を拭いている。そして、「……入ってねえじゃねえか、このバカヤロ!」あるとき島田紳助から留守番電話が入っていた。「弟弟子の俺がこんなこと言うのは生意気やって分かってますけど、兄さんは楽してるんや。でも、もう一回売れなあきませんで。なあ、もう一回、俺と勝負しましょ。兄さんはおもろいんやから、絶対にできるって!」 最後の方は涙声やった。仕事で出会った評論家の塩田丸男さんが、さらに俺の活動の幅を広げてくれた。「洋七さんは講演はやらないの?」「講演? そんな難しい話はようしませんよ」「講演は、別に政治とか経済とかの堅苦しい話じゃなくてもいいんだよ」「え、そうなんですか?」
結局、40社以上の出版社を回ったけど、採用してくれるところはどこもなかったよ。半分近くの会社は返事すら、もらえんかった。「どこもあかんのやったら、自分で出したれ!」。俺は自費出版をすることにした。タイトルは、たけしが考えてくれた。「『振り向けば哀しくもなく』って、どうだ? メロドラマみたいでいいだろ?」「うーん、そうかなあ。まあええかも」
俺は漫才が終わると、誰もおらんようになった楽屋で一人、新喜劇が終わるのを待って、それから劇場の表にテーブルを出して本を並べて売った。俺とたけしと、たけしのかあちゃんの3人で食事したことがあるんやけど、いつもはようしゃべるたけしが、恥ずかしそうに、ずっと下向いて何もしゃべらへんねん。電話するときも「こづかいやろうか」としか切り出せない、不器用なたけし。あいつ、大好きなかあちゃんやのに、素直になれへんねんよ。ばあちゃんの葬式は豪雨の日やった。近所の公民館で葬式をしたんやけど、集まった人はみんな「ばあちゃんらしいにぎやかな日ばい」と言うてた。ものすごい雨音で、しんみりするはずの葬儀の場がにぎやかやったらしい。それに外に出ると人と会う。会話をする、刺激を受ける。うちのばあちゃんみたいに、生牡蠣をおすそ分けしてもらえるかもしれん。とにかく年をとれば取るほど、外に出てうろうろするべきなんや。当時、東京には広島のお好み焼きの店は、ほとんどなかったころやから、かあちゃんの店は大流行した。最初は、「B&Bの島田洋七の母親がやっている店」として来る人も多かったみたいやけど、そのうちに味の良さで人気が出たんや。かあちゃんは、日に日にやつれていった。見た目にも衰弱して、素人目にも、もう長くはないのが分かる。ほんまつらかった。意識が薄れているようなこともあって、そんなときは、枕元で聞いた。「かあちゃん、俺、分かる?」俺はかあちゃんが危篤とも言えず、気の利いたせりふも思いつかんまま、勧められるままに中に入れてもろた。観客席に行くと、ちょうど広島カープのチャンスやったみたいで、球場は大歓声に包まれていた。「おお!洋七さん。旗、振ってよ!」トレインマーケットも楽しかったけど、俺の一番の楽しみは、晩ご飯の後、じいちゃんとばあちゃんの話を聞くことやった。印象に残っているのは、アメリカ人がなんで、あんなにオーバーアクションなのかについての話。カウボーイといえば、アイダホのバーは、そのまんま西部劇の世界やったな。「近くのバー」と言われて、これまた20キロくらい車を走らせた所にあるバーに連れて行ってもらった。夜は真っ暗で人の気配もない。いつ動物に襲われるかもしれん。そんな中で、「銃があると寂しくない」という感覚は、経験したことのない俺には実感はできんけど、お守りのような存在やったんやろなあ、というのは想像できた。俺がまた吉本に戻ったのは、あれは漫才ブームが終わったころかなあ。新幹線でばったり、吉本の林会長に会うたんや。「ぼちぼち帰って来いひんか? 若いもんに漫才教えてやってくれ」と言われて、また吉本にお世話になることになった。その後は契約満了ということで離れることになるんやけど、俺が今あるのは吉本のおかげやと思てるよ。中田カウス・ボタンのカウスさんが、オチを言うた後で、一瞬の間を空けてから自分で笑わはるねん。そうするとお客さんもつられて笑う。あれは、カウスさんの師匠の中田ダイマル・ラケットさんの芸なんやな。それをついこないだ、カウスさんに言うたら「おまえは細かいとこ、よう見てるなあ」と感心されたよ。楽屋に届いたチャーシュー麺とラーメンを前にしたやすしさんは、そこで初めて「間違えた!」と思たんやろな。けど、動揺も見せんとラーメンをチャーシュー麺につけて食べ始めた。「こういう食べ方もあるんや」新聞を読んでたら、福岡の三越で鶴太郎の絵の個展が開かれることが書いてあった。ちょうどそのとき、俺も佐賀にいるスケジュールやったから鶴太郎に連絡して、福岡で飯を食うことになった。すし好きな俺やから、当然すし屋に行く。そこで鶴太郎に言うた。「おい、カニ食え」「変わってませんねえ」と言うた鶴太郎は大爆笑。
若手芸人が漫才するバーというのは分かるんやけど、俺が女装してたとこだけぱっと見た、明石家さんまとフジテレビの三宅ディレクターがやって来た。「兄さん、何してはりますのん。女装までして。そんなに金に困ってはるんやったら貸しますよ」とか言いよる。「よし、これならいける!」と、所沢にラーメン屋「まぼろし軒」を開店した。店の名前は、ビートたけしが「夕方まぼろしのように現れて、明け方まぼろしのように消えていく。いつ消えてもいいように」という意味を込めてつけてくれた。そしたら、映画の評判がよかったこともあって、「テレビドラマにしないか」という話が持ち上がったんや。話を持ってきたんは、佐賀の民放テレビ局・サガテレビを系列局に抱えているフジテレビ。メインロケ地は、市長さんが中心になって誘致を進めた佐賀の武雄市が選ばれたんやけど、武雄市には「佐賀のがばいばあちゃん課」まで設置されたんやで。
俺は漫才が終わると、誰もおらんようになった楽屋で一人、新喜劇が終わるのを待って、それから劇場の表にテーブルを出して本を並べて売った。俺とたけしと、たけしのかあちゃんの3人で食事したことがあるんやけど、いつもはようしゃべるたけしが、恥ずかしそうに、ずっと下向いて何もしゃべらへんねん。電話するときも「こづかいやろうか」としか切り出せない、不器用なたけし。あいつ、大好きなかあちゃんやのに、素直になれへんねんよ。ばあちゃんの葬式は豪雨の日やった。近所の公民館で葬式をしたんやけど、集まった人はみんな「ばあちゃんらしいにぎやかな日ばい」と言うてた。ものすごい雨音で、しんみりするはずの葬儀の場がにぎやかやったらしい。それに外に出ると人と会う。会話をする、刺激を受ける。うちのばあちゃんみたいに、生牡蠣をおすそ分けしてもらえるかもしれん。とにかく年をとれば取るほど、外に出てうろうろするべきなんや。当時、東京には広島のお好み焼きの店は、ほとんどなかったころやから、かあちゃんの店は大流行した。最初は、「B&Bの島田洋七の母親がやっている店」として来る人も多かったみたいやけど、そのうちに味の良さで人気が出たんや。かあちゃんは、日に日にやつれていった。見た目にも衰弱して、素人目にも、もう長くはないのが分かる。ほんまつらかった。意識が薄れているようなこともあって、そんなときは、枕元で聞いた。「かあちゃん、俺、分かる?」俺はかあちゃんが危篤とも言えず、気の利いたせりふも思いつかんまま、勧められるままに中に入れてもろた。観客席に行くと、ちょうど広島カープのチャンスやったみたいで、球場は大歓声に包まれていた。「おお!洋七さん。旗、振ってよ!」トレインマーケットも楽しかったけど、俺の一番の楽しみは、晩ご飯の後、じいちゃんとばあちゃんの話を聞くことやった。印象に残っているのは、アメリカ人がなんで、あんなにオーバーアクションなのかについての話。カウボーイといえば、アイダホのバーは、そのまんま西部劇の世界やったな。「近くのバー」と言われて、これまた20キロくらい車を走らせた所にあるバーに連れて行ってもらった。夜は真っ暗で人の気配もない。いつ動物に襲われるかもしれん。そんな中で、「銃があると寂しくない」という感覚は、経験したことのない俺には実感はできんけど、お守りのような存在やったんやろなあ、というのは想像できた。俺がまた吉本に戻ったのは、あれは漫才ブームが終わったころかなあ。新幹線でばったり、吉本の林会長に会うたんや。「ぼちぼち帰って来いひんか? 若いもんに漫才教えてやってくれ」と言われて、また吉本にお世話になることになった。その後は契約満了ということで離れることになるんやけど、俺が今あるのは吉本のおかげやと思てるよ。中田カウス・ボタンのカウスさんが、オチを言うた後で、一瞬の間を空けてから自分で笑わはるねん。そうするとお客さんもつられて笑う。あれは、カウスさんの師匠の中田ダイマル・ラケットさんの芸なんやな。それをついこないだ、カウスさんに言うたら「おまえは細かいとこ、よう見てるなあ」と感心されたよ。楽屋に届いたチャーシュー麺とラーメンを前にしたやすしさんは、そこで初めて「間違えた!」と思たんやろな。けど、動揺も見せんとラーメンをチャーシュー麺につけて食べ始めた。「こういう食べ方もあるんや」新聞を読んでたら、福岡の三越で鶴太郎の絵の個展が開かれることが書いてあった。ちょうどそのとき、俺も佐賀にいるスケジュールやったから鶴太郎に連絡して、福岡で飯を食うことになった。すし好きな俺やから、当然すし屋に行く。そこで鶴太郎に言うた。「おい、カニ食え」「変わってませんねえ」と言うた鶴太郎は大爆笑。
若手芸人が漫才するバーというのは分かるんやけど、俺が女装してたとこだけぱっと見た、明石家さんまとフジテレビの三宅ディレクターがやって来た。「兄さん、何してはりますのん。女装までして。そんなに金に困ってはるんやったら貸しますよ」とか言いよる。「よし、これならいける!」と、所沢にラーメン屋「まぼろし軒」を開店した。店の名前は、ビートたけしが「夕方まぼろしのように現れて、明け方まぼろしのように消えていく。いつ消えてもいいように」という意味を込めてつけてくれた。そしたら、映画の評判がよかったこともあって、「テレビドラマにしないか」という話が持ち上がったんや。話を持ってきたんは、佐賀の民放テレビ局・サガテレビを系列局に抱えているフジテレビ。メインロケ地は、市長さんが中心になって誘致を進めた佐賀の武雄市が選ばれたんやけど、武雄市には「佐賀のがばいばあちゃん課」まで設置されたんやで。
この連載は、自分の集大成やと思て臨んだ仕事やから、これまでどこにもしゃべったことない話や、書いたことのないエピソードも、正直に全部書かせてもろた。 俺自身も今までの人生を丁寧に振り返る機会になったよ。何十年ぶりに思い出したエピソードもたくさんあって、ほんまにいい経験になりました。
以上で 『笑ってなんぼじゃ!』の挿絵紹介もおわりです。
で、日本農業新聞では週一で『笑ってなんぼじゃ!世相編』と題して主に時事問題を取り上げたエッセイが始まっています。そこでも挿絵を描いてます。