時代物について、その2
(先週からのつづき)当時は若い人で時代物を描こうとする人がほんとに少なかったので「君は変わってるね〜」とよく言われた。まわりの同年代の人をみても、自分だけ違うコースを走っているように思えてライバル意識もなかった。そんな状況にちょっと得意になっていたところもあるだろう。「ゆうぐれ」
昔の挿絵をよく見ていた。木村荘八、小村雪岱、石井鶴三が私のビッグスリーだった。今のイラストレーションの上質な部分はこういうところからも受け継がれている。ちなみに岩田専太郎は好きじゃない。あのセンスは後々、劇画やアニメに流れていくものがある。また、明治の浮世絵、小林清親、井上安治も大好きだ。石井鶴三「大菩薩峠」より(小村雪岱、木村荘八は今でもよく取り上げられるので、石井鶴三を載せてみた)
しかし、その後「チョイス」も落選続き、コンペも仕事も反応はなかった。いつかの自信もどこへやら、いったんそうなると、みんなと違うコースを走っているのも不安に思えはじめ、絵も二転三転してまったく自分を見失ってしまい、楽しまざる日々を送るしかなかった。今にして思えば、やりたいことは間違ってはいないが、どう見せるかの点で力不足だったのだろう。その後は開き直って今のような絵を描くようになった。
しかし、あのまま時代物専門で突き進んでいけばどうなったのだろう。よく時代物専門の人が着物を着て生活をしているのを見たりするが、あれはそうなるのも当然のことだ。そうなってる自分が想像つかないので、どっちにしろ専門にはなってなくて、今みたいなところに落ち着いていると思う。もう専門になる気はないが、得意分野には育てたい。捲土重来を期して、思う存分時代物の仕事がしたいものである。(おわり)