伊野孝行のブログ

WEB対談について話そう

玄光社の「イラストレーションファイルweb」で南伸坊さんとの対談『イラストレーションについて話そう』がはじまりました。

伊野孝行×南伸坊「イラストレーションについて話そう」click!

11月1日に第1回ー①、2日に第1回ー②、昨日6日に第1回ー③が更新されています。ちょこちょこ小出しにするこのやり方を、「ほぼ日」方式というのだとか……。しばらくのお付き合いをお願いいたします。

というわけで、今日は『イラストレーションについて話そう』について話そう、と思います。
実はこの連載、玄光社のMさんに「イラストレーション史みたいなものを書いて欲しい」って、僕が頼まれて、当初は自分一人で書く予定だったんです。
でも、真面目なイラストレーション史みたいなのって、僕は書けないし、書くつもりもないし。「みたいなの」って言ってるから、Mさんも教科書みたいなのは望んでないとは思いました。
一般に美術史の中で語られる絵も、9割以上は、イラストレーションと言っても差し支えないですよね。
なんでかっていうと、イラストレーションが「絵の役割」「絵の機能」という意味を指し示す言葉にすぎないから。また、シュルレアリスムのような芸術運動だって、モロにイラストレーションに影響を与えているわけなので、自分の興味の及ぶところをあちこち飛びながら、漫談のような形で書こうと思ってたんです。
でも、困ったことに、1960年代の日本のイラストレーション(という言葉が使われだした)黎明期には、僕は生まれてすらいない。その後、ブワ〜ッ!って盛り上がる70年代80年代も、まだ子どもだった。その時代のことをよく知ってる方はまだ現役でピンピンしているので、迂闊なことは書けないなぁ……って。
それに現代史パートって、すべての当事者みなさんに好印象のまま書き終わるって、ほぼ不可能じゃないですか。あっちを取り上げて、こっちを取り上げないとか……だいたい、僕は「お前が言うな」って立場だし。また「生意気な」って言われちゃうだろうし。こまった、こまった、こまどり姉妹……。
伊野孝行画「小村雪岱shoots鈴木春信」
あ、そうだ、その辺の時代は、実際見てきた人との対談にしようと思って、とある酒席で南伸坊さんにそれとなく、「書くの気をつかってしまうし、難しいです」と言ったんです。「それじゃあ、二人で対談しよう」と案の定、向こうから言ってくれたので、助かりました。
で、家に帰って、その日の深夜「いや、そのパートだけ、対談してもらうんじゃなくて、全部対談でいいんじゃね?」と思ったのです。責任が半分になるしね。
というよりも、僕は南伸坊さんと絵の話をするのが、至福の時間だから、それが定期的にできるからいいなぁ、というのがまずあったし、あと、僕が、絵の話を書いたりするようになったきっかっけも伸坊さんだから。
南伸坊画「司馬江漢」
変な言い方だけど、すべての人は歴史的存在なのです。
自分が絵を描こう、イラストレーターになりたい、ってはじめた時は全然そんな意識なかったけど。
自分以前にはあんな人がいて、こんな人がいて、それぞれの時代の中で生きて描いて、問題意識をもってて、みんな悩んで大きくなってるわけだよなぁ……自分が絵を描いてるうちに、溜まってきた「疑問と謎」を彼らに問いかけた時、あ、僕は歴史とつながった、と思いました。つまり歴史的存在になったわけです。
対談の冒頭で伸坊さんが「イラストレーションの歴史みたいな話って、学者がやったら全然面白くないし、プロのイラストレーターがやってもマジメになっちゃってつまんないんだ(笑)。雑談の中で出て来る話が一番面白いんだよね。」
っていきなりぶちかましてますけど(笑)、さっき言ったように、絵を描く人なら、描いてるうちに当然「疑問と謎」が自分の中に残るはずなんですよ。
要は、そこから話をはじめよう、ということですよね。
描き手は、描き手である立場を手放してはいけないと思います。それじゃぁ研究者と同じになっちゃうもん。微に入り細に入り調べて、保存し発掘する……という仕事は研究者の人にお任せしたいと思います。小村雪岱だって、そういう学芸員の人がいてくれたから、まとめて見ることができるわけですしね。
というわけで、みなさま、どうかひとつよろしくお願いいたします〜。
追記
昨日ツイッターを見てたら、明治・大正・昭和の写真@polipofawysuというアカウントの方が、昭和8年11月の朝日新聞の夕刊をアップしていたのですが、そこにたまたま小村雪岱の挿絵が載っていました。対談の中でも出てくる邦枝完二の「おせん」ですね。
昔の新聞小説の挿絵は二段分あって、大きいというのは知ってたけど、それよりびっくりするのは、絵の多さですよね。ヒトラーまでも絵なんだ。で、4コマ漫画もある。挿絵の下の主婦之友の「漬物つけ方二百種」というレタリングがめちゃめちゃ強い。挿絵の上には太平洋海上火災の広告もあって、どっちも絵的な要素が多い。
つまりなにが言いたいかというと、この紙面で目立つのは大変だ、ということ。小村雪岱の絵はブラック&ホワイトで構図にも工夫があるから、さぞかし目立ったんだろうなと思ってたけど(この日の挿絵は、それほどキメキメの絵ではないが)そんなに甘いもんじゃないね。こんなところで毎日勝負してたんだ。
名前の大きさは作家と同じである。「画」を名前の下に付けてあるから字間が狭いけど。

『腹ペコ騒動記』

岡崎大五さんの新刊『腹ペコ騒動記』発売中です!カバー、中の挿絵などふんだんに絵を描いております。「小説現代」で連載している時から、このブログでも時々紹介していましたが、一冊にまとまると、やったぁ!って感じがしますね。私としても気合を入れてやった仕事です。ブックデザインは日下潤一さん赤波江春奈さんです。

文章を読み、写真資料を見て、地図を描いているうちに、それぞれの国に親近感が湧いてくるのですが、親近感がわく一番の元は、岡崎さんのアングルです。

岡崎さんが見ている景色や人や料理がいいんですよ。たとえば、岡崎さんが嫌な目にあっている場面でも、読んでて楽しい。災難に読者は巻き込まないのです。巻き込んで読ませる方法もあるでしょうが、そうするとこの本の気持ちよさはなくなるかもしれません。
自分もたま〜に文章の仕事をしますが、この辺のさじ加減が難しい。
岡崎さんは旅の達人であり文章の達人だなぁ、と思います。旅の作家なんだから、当たり前なんですけどね。
天はこの二物をなかなか授けてくれません。
なぜ断言できるかというと、毎回作画のために、岡崎さんの訪れた国をネットで調べるのですが、必ず誰かが旅行していて、ブログに書いているのです。(家にいながら資料が探せるまことに便利な時代です。画像検索を駆使しして、あたかも見てきたかのような情景を作るのが私の仕事なのでした。)でも、面白い旅行記はそうそうないね。
映画や小説の中で、食事のシーンがうまく使われていると、ドラマ自体の味も良くなるもんですけど、『腹ペコ騒動記』にはそんなシーンが、毎回それぞれの国ごとにあるんですから。
食べることで、世界の国の人間はわかりあえる気がする……大げさだけど、そんな風に思ってずっと読んでました。
だから、カバーは連載で出てきた人や食事をみんな並べてみたのです。なんてピースフルな絵なんだ……自分で描いててそう思っちゃいました。
さて、11月7日に代官山蔦屋書店で岡崎さんのトークショーが開催されます!
一足先に書店に偵察に行かれた岡崎さんよりディスプレイの写真も届きました。私の絵も何点か飾られています。
↓くわしくは岡崎さんのブログでお確かめください!

大徳寺と最近の『笑なん』

先週は2泊3日で、京都の大徳寺に合宿して、襖絵を描いていた。

京都の捉えがたい力のひとつは、この大いなる徳の寺からも放たれている。
自然の中での修行を理想とする禅宗において、庭に深山幽谷の景色を作ったのが枯山水だ。確かに、お庭も建物も人の手で作ったものなのに、肌にあたるのは山中の「自然」と同質のツブツブだ。空を見上げても、塔頭の屋根の向こうには電線ひとつ見えない。ここは京都の町の中のはずだが……。
「カラスの鳴き声も東京とは違う」と一緒に合宿しているヤマガさんが言った。

私もすでに普段の私ではなかった。
いつもはメールが届くと、すぐに返事を返すタイプなのに、禅寺にいると返信が億劫でならない。SNSも追っかけるのがめんどくさい。「パソコンを持ち込んでここで仕事をなさっても良い」と和尚は言ってくださるが、いやいや、私はとてもここでは仕事ができそうにありません……。ここは修行の場であるが、どうやら私の仕事は修行とは程遠いようだ。

というわけで、自然と言えば公園の木々くらいの、しかも、向かいのアパートが取り壊しの最中で静寂の暇もない、散らかった部屋で雑多のものに囲まれながら、今週も代わり映えのないブログを綴るのだ。

「日本農業新聞」で連載されている島田洋七さんの自伝エッセイ『笑ってなんぼじゃ!』の挿絵でございます。
絵だけ見てても、何のシーンかよくわからないから、描いた箇所を抜き出してみましたが、それでもよくはわからないかも。

小学校時代、ばあちゃんに勧められて毎日走っていた俺は、ダントツの1位!先生からも「お前、足速いなあ」と注目してもろた。「お前ら、今からノックするから、好きなポジションにつけ!」と言う先生の声に、あのころ、“サード長島”が大人気やったから、ほとんどのやつがサードに集まった。「先生、いつも何の本を読んでいるん?」
「ああ、これか? 野球の本や。俺はバスケは専門やけど、野球のことはようわからんから、本を読んで勉強してるんや」俺は中学に入っても相変わらず、朝の飯炊きや水く みをしていたから、 「明日は早朝から朝練習があると」とばあちゃんにうそをついて、こっそりと朝の3時 ごろから中央市場の荷物運びのアルバイトに行くこ とにした。譲葉さんは卒業後、佐賀商業から甲子園に出場した くらいやから、当時から存在が際立っていたなあ。そんなレベルの高い野球部で、俺がレギュラーにな れたのは、ひとえに足の速さやと思う。チームメートが「おい徳永、今日もばあちゃん来てるよ」と教えてくれるんやけど、せっかくばあちゃんが気を遣ってこっそりしているんやもん。「うん、知ってる」とだけ答えて、俺も気がついてないふりをしていた。「え! スパイク? 今から?」と言いながら、ばあちゃんの後を追った。「いいや、キャプテンやけん、スパイクを買うんや」「もう7時やし、店も閉まっているよ」ところが、ばあちゃんは言い出したら聞かへんのや。「はい。二千五百円です」おっちゃんがそう言うとばあちゃんは、「そこんとこをなんとか一万円で!」と、必死の形相で握りしめた一万円を差し出した。「え? 二千五百円ですよ」と、目を白黒させたおっちゃん。

2時間目の理科にも、3時間目の歴史でも、机の上にスパイクを置いて、先生からの質問を待ってたもんや。この日から、少なくとも2、3日は、これやってたんと思う(笑)。ある日、突然、南里くんが俺に聞いてきた。「徳永くんて、餅好き?」「うん、好きやけど…」「じゃあ、家にいっぱいあるし、明日、持ってくるよ」 にっこり笑って、そう言いながら帰っていった南里くん。ところが、次の日の朝。「先生、徳永くんはいろんなジャガイモを見たいというてたんです。だって、ジャガイモは2つとして同じものがないんです。ジャガイモにもいろんな顔があるんですよ」 さすが農家の息子!橋口くんは、クリーニング屋の息子。俺が野球部のキャプテンになったときに「城南の野球部のキャプテンなんやから、ピシッとせんとあかん! 俺にまかせとき」と言うてきた。橋口くんは、お客さんからクリーニングに出された洗濯物の山の中に、こっそり俺の制服を紛れ込ませていたらしい(笑)。やっぱり人に親切にしてもらったことはずっと忘れられんもんやね。俺もいろんな人に親切にしてもろたけど、ばあちゃんもそうやった。忘れられんのが豆腐屋のおっちゃん。「僕、崩れたんあるから、大丈夫や。な、はい、5円」おっちゃんは、目で合図してうなずきながらそう言った。頭痛だけはノーシンやったけど、ばあちゃんは、それ以外はなんでも正露丸で治していた。 お腹が痛いときはもちろん、歯痛のときは、歯に詰める。 脇腹が痛いときは、つぶしてお腹に塗ったりもしてた。風邪ひいたときも「これ、塗れ!」と正露丸(笑)。翌日も、その次の日も痛みは治まるどころか、どんどんひどくなっていく。こらたまらん! と俺は学校の帰りに、ひとりでばあちゃんちの裏にある杉山眼科に駆け込んだ。学校の帰りやから、お金は持ってへんかったけど、後で払いにいったらなんとかなるやろと。「いや、先生は後でばあちゃんにもらうというてたけん」と俺が言うやいなや財布をつかんで家を飛び出していってしもたんや。それから何十年後。偶然、すし屋で百武先生の息子さんに会ったんや。今は息子さんが理事長で、なんと俺のねんざを診てくれた百武先生も、医師は引退したものの101歳でお元気やということもわかった。「お前、どこで覚えたんや?」「いや、テレビとかでプロの選手がやっているから」「ええっ!テレビでか! それでできるんやからたいしたもんや」先生にもそう言うて褒めてもろた。俺が野球がうまくなったのは、足が速かったんもそうやけど、いつもイメージを大事にしていたこともある。スタンドプレーと言われたトスもそう。
テレビや球場でプロの選手がやっているプレーを覚えて、頭の中で自分がするようにイメージするんよ。

オトナの一休さん書籍化

Eテレの「オトナの一休さん」が書籍になった。

KADOKAWAより発売中です。
一休さんの生き方をアニメにした番組であるが、一休さんは禅僧である。一休さんを語るときに「禅」は外せない。
しかし、この禅というものが、なかなか理解しにくいものなのである。
書籍化にあたり、一本描き下ろし漫画を描いた。「死後の一休さん」というタイトルだ。
禅はそもそも「わかる」ようなものでもない、気さえする。
例えば、禅僧が悟りを開くよすがとする、禅問答というのがあるが、これなど普通の論理的思考で答えても仕方がない。
白隠和尚の代表的な公案「隻手の声(せきしゅのこえ)」は、「両手を打って叩いたらパンと音がするが、隻手(片方の手)には何の音があるのか」というものだ。
片方の手だけあげたって、何の音もしないわけなのだが、なんと答えればよいだろう……。
「隻手の声」はまだ問い自体はわかりやすいが、「南泉斬猫(なんせんざんびょう)」という話は、こんな感じである。
「南泉の弟子たちが猫を奪い合っていた。そこで南泉は猫を取り上げ、おまえたち、この有様に対し て何か気のきいた一言を言ってみよ、言うことができねば猫を斬ってしまうぞ、と言った。誰も答えることができず、南泉は猫を 斬った。その晩、一番弟子の趙州という人が帰って来た。話を聞いた趙州は、履いていたぞうりを脱ぎ、頭の上にのせて黙って部屋を出て行った。南泉は、趙州があの場にいれば、猫を救うことができたものを、と嘆いた」と。
ん?ん?ん?ん?全然わけわかんない!でも……なんか面白い!
禅のことはよくわからないので、絵の方の話ですると、この禅問答を読んで、シュルレアリスムの代表的な画家、マックス・エルンストのコラージュのコツに通じるものを見た。巖谷國士さんが、確か「コラージュというのは散々やられてきているが、なかなかマックス・エルンスト以上に面白いものにお目にかかれない」みたいなことを書いたと記憶するのだが、なるほど……と私も思った。マックス・エルンストの発想はこの禅問答レベルだ。ん?なんか無理やりっぽいって?
だって、理屈じゃない、言葉じゃない、というのは禅の中心的な考え(←適当に書いているのであまりに本気にしないでね。興味のある人は各自自分で調べるべし)のようだが、まったく絵もそうではないか。絵の一番本質的な部分は、言葉じゃなければ、理屈でもないのである。シュルレアリスムはそれをさらに……話が長くなるのでやめておこう。
ちなみに、公案にはこれという回答はない。
まぁ「オトナの一休さん」の書籍版には、この手の難解な話は書いていないのでご安心を。ぜひ痛快に読んでいただきたい。「常識や正論に悩んでいるアナタに読んでもらいたい!」と帯にある。        
ところで、さっきの禅の公案にしろ、これらが一体お釈迦様の教えと、どんな関係があるんだろうか?
仏教はインドから中国に渡り、朝鮮半島を経由して、日本にもたらされたわけであるが、聖徳太子の時代の仏教にしてからが、すでにお釈迦様が最初に説いた教えとは違っている。禅宗は逹磨が祖であり、中国で老荘思想の影響を受けて完成された……たぶん、そんなことだったはずだ。

お釈迦様が説いていた初期仏教、原始仏教を、知りたい人は、youtubeで中村元さんの講座を聞いてみよう。「中村元でございます……」という挨拶から始まるこの動画は、中村先生の声が気持ちよすぎて、寝る前に聞くと、絶対に最後まで聞けない。「ブッダの言葉」「ブッダの生涯」今まで何度、挑戦したことだろう。

岩波文庫の中村元さんの『ブッダのことば―スッタニパータ』も買ってパラパラと読んだ。感触としては(何しろyoutubeも最後まで聞いてないし、本も拾い読み程度なので)、お釈迦様の直接口にした教えはとても素朴な感じだった。中村元さんの語り口と合う。トリッキーなことを求める人には、聖書の方が面白いかもしれない。
ただし、仏教もその後、宗派によって様々なバリエーションを見せていくのは、皆様よくご存知のところ。
で、初期仏教が日本に紹介されたのは、今から約八十年くらい前ということなので、つい最近だ。
ではなぜ、お釈迦様が最初に説いていた教えが判明した今でも、変形した仏教を、信じたり行ったりしているのか。僕はちょっと疑問であった。お釈迦様の言ってないことをなぜ?……と。
そんな折、ニコラ・ブーヴィエという人(ヒッピーの元祖みたいな人らしい)の『日本の原像を求めて』を読んでいたら、大変腑に落ちることが書いてあった。
〈ブッダの誕生からさまざまな曲折を経て、仏教は日本にたどり着いた。インドから追い払われ、チベット、アフガニスタンを経て、中央アジアの国々に達する。その間、ヘレニズム、ゾロアスター教、インドのタントラ、中国の道教、さらにはーおそらくーキリスト教の一派であるネストリウス教の影響を受けながら、仏教は豊かになっていった。
西暦六四年には、漢の皇帝が改宗する。
四世紀には、朝鮮に渡る。そして海路をたどり、「仏法」はようやく地の果て日本にたどり着く。
あたかも川が支流を集めて大河をなすように、仏教はそのときすでにきわめて多面性のある教義をなしていた。素朴な慈悲の心を説く教えから、目も眩むような形而上学的な思弁にいたるまで、仏教にはありとあらゆる要素が含まれている。そこにはアジア的心性のすべての面がちりばめられている。〉
そうか、そいういうことなら、いいじゃないか!
合点だぜ!
ニコラ・ブーヴィエさんは一時、大徳寺に住んでいた。
大徳寺といえば、一休さん。
そして今日、私は、大徳寺に行く。
一休さんゆかりの塔頭、「真珠庵」の襖絵を描きにいくのである。
私以外にも四人、描き手がいらっしゃる。今日から合宿して、襖絵にチャレンジすることになっている。
あぁ、緊張すんなぁ。だって、襖に直接描くんだもん。うまく描けたものを襖にしたてるんじゃないんだもん。
その模様はまたいずれお目にかけることもあるかもしれない。
最後はいつもの通り、自慢話でまとめてみた。
おわり。

話半分運慶物語と蛙

混雑必至の展覧会が東京国立博物館で開かれている。「運慶」展だ。
美術雑誌で仕事なんかしていると、内覧会でゆっくり見られる特権があるとお思いでしょう?
とんでもない。特集の仕事をしても内覧会に誘ってもらったことなんてな〜い。
だから、運慶も長蛇の列に並んで見るんだろうなー。伊藤若冲の時は何時間も待つのが嫌で、結局見に行かなかった。何年か前の阿修羅展は、2時間くらい待って見たのだが、どうしてこんなシンドイ思いをして見なきゃいけないのかと、悲しくなった。会場に入ったら入ったで、阿修羅像を360度ぐるっと囲んですし詰めのライブハウス状態。ただし、かぶりつきで押し合いへし合いしているのは、パンクスではなく、老人の群れ。
ここぞとばかりに稼ぎたいのもわかるが、入場制限するとか予約制にするとかしてほしい。何時間も並ばされて、もう、なんだか頭にくる。めちゃ混みしている美術館は、大嫌いなんだ!
美術館はいつ行っても人がいなくて空いてるのが最高なのに!
採算なんてわしゃ知ったことじゃない。
別に美術が盛り上がっても盛り上がらなくても、どっちでもいいんだよ、わしゃ。
で、運慶であるが「芸術新潮」でエピソードを漫画にしている。
「トリビア・イン・ザ・UK」という話半分で読む漫画だ。UKというのは運慶。タイトルはセックスピストルズの駄洒落だろうか。
何時間も並んで私が見た阿修羅像であるが、どうして見ることができたのかといえば、誰かがずっと残してきたからだ。
阿修羅像は何回も火事にあっている。その度誰かが助けたということになるが、運慶自らが阿修羅像を運び出した可能性だって無きにしも非ずである。
話半分だけど、そう考えるとロマンを感じないかい?「話半分で読む日本美術史」というのがあったら、僕は買うね。
この他にも二本、漫画を描いた。
漫画に描くと思い入れが増すから、並んででもやっぱり見ておかなくちゃ、という気になる。
待つし混むし(と言っても阿修羅や若冲や運慶が例外的なだけだが)、ここ最近の日本美術ブームは誰にとっていいのだろうか。
美術雑誌じゃなくても美術特集をよくやるようになったから、きっと美術雑誌は、「みんなでやらんでいい〜」と思っているに違いない。
僕は時々そういう雑誌から仕事をもらえるから、ま、いっか。
話は変わります。
ブログを更新するとツイッターでお知らせをするのだが、毎回2リツイートくらいしかされない。それもだいたい同じ人(ありがとうございます!)。
先日、「和田誠と日本のイラストレーション」展をたばこと塩の博物館で見た後、こんなつぶやきを投稿したところ、非常に広範囲に拡散された。ついでなので、和田誠さんの『時間旅行』を開いてみると、〈そしてある日、新聞を見て驚いた。広告欄に例の募集の人選が発表されていて、ぼくが、一等賞だったのだから。一等賞はもう一人いてウノアキラという人でした。宇野亜喜良さんですね〉賞金の3万円の使い道であるが、和田さんはカメラが欲しかった。日大写真科に進んでいた友人に相談して、ちょうど3万円のレオタックスという機種を買った。〈応募する時に蛙の下描きをたくさんしていて、それが残っています。それから、入選したへばった蛙以外も何点か送ったんですが、その中の元気のいいやつが実際に広告に使われました。許可は求められなかったしギャラももらわなかったけれど、使われたことが嬉しかったので文句はありません〉とある。なんと使われたのは入選作ではなかったのか。でも入選作いいよね〜。特に手足の表現がシャレてます。『時間旅行』は何回も開いているけど、他の下描きが載っていたのは忘れてた。
和田さんが大学1年生だったこの時、3学年上の宇野さんは、名古屋から上京し、世田谷区奥沢に居を構えていた(宇野さんの年譜によると、上京したのが1955年で、興和新薬のカエルマークコンペで一等に選ばれたのは翌年1956年ということになっている)。同年にカルピス食品工業に入社。広告課に配属され、パッケージや新聞広告を手がける。第6回の日宣美で「カルメン」のポスターが特選となる。この時期から杉浦康平さんの仕事も手伝うようになる……というのはこれまた宇野さんの年譜から。ちなみにカルピスは翌57年に退社。
ついでに、2等以下の人の名前もググってみたけど、折り紙会館の館長になっている人とか、資生堂の社史に名前が出ている人とか、同姓同名の人はいたが、いまいちよくわからない。
ともかく、和田さんと宇野さんに順位をつけずに、二人とも一等にしたのが、後から振り返ると面白い。のちのイラストレーション界の王、長島。落語で例えるなら志ん生、文楽。そもそもイラストレーションという言葉自体を世に知らしめたのが、このお二人を中心とする方々なのであるが。蛙のコンペの審査員は興和新薬の宣伝課の誰かだったんだろうか。なかなかセンスがいい。

「僕おしゃ」終る

ナンバーワン自動車雑誌「ベストカー」で連載している藤田宜永さんの『僕のおしゃべりは病気です』は本日発売号をもって最終回。

藤田宜永さんは「文壇一のおしゃべり男」の異名をとる方で、私も一度酒席を共にさせていただいたことがあるが、確かにおしゃべりな先生であった。いや、本人がおしゃべりである以上にこっちの話をちゃんと聞いてくださる。どんな球でも確実に拾って返してくれる安心感。
「この人とは話しやすい……」そう思うと私は俄然好意を持つ。
好みのタイプはと聞かれれば、しゃべって面白い人ということになるだろう。
話が面白い人というのは、面白い話を持っている人という意味でもあるが、他の人が独演会を聞いている状態になりやすい。それはそれで楽しいのだが、みんなの会話が盛り上がる方がより楽しいと思う。雑談で盛り上がるのが一番良い。
私は話がヘタなのに、たまにトークショーをやることがあり、聞きに来てくれたお客さん達と二次会に行った時に、何となくトークショーの続きみたいな感じになってしまってしまうのが困る。

自分の持ちネタに磨きをかけるのもテクニックであるが、とりとめのない雑談を盛り上げるのもテクニックがいるのだろう。藤田先生は後者のテクニックにそうとう長けているとお見受けした。

私は病気というほどでもないが、まぁまぁおしゃべりな方だし、みんなで楽しくしゃべっている中に黙っている人がいると気にかかってしまう。で、話を振ってみるのだが、いかにもわざとらしい感じが出てしまって、藤田先生のようにうまくはいかない。
ところが、時たま、自分が黙っている方に回ることもある。そういう時はどういう心境かというと、決してその場が楽しくないわけではない。縄跳びの中に入っていくタイミングがつかめないように、なぜか会話の中に割って入ることができないでいる。
だから誰かが話を振ってくれれば、しゃべるのだけど、何かこう、うまく回れないで、すぐにまた聞く側にもどってしまう。そういう時の雰囲気は何だろう。空気が読めてないというのともまた違う。会話に対して半身でいることが相手にもわかってるんだろうな。
後で「今日はおとなしかったね」と言われる。「いや、別に退屈してたわけじゃないんだよ」と答えるし、実際のところそうなのだが、おしゃべりってむずかしいなと少し思うのも確かなのだった。