『ku+クプラス』というトンガった俳句雑誌があるのですが、3号目にして最終号という残念なお知らせ。
しかも第3号は紙に印刷して雑誌にするのではなく、webでのリリース。これまた残念。手に取り、触り、めでるだけでも気分が良かったものです。俳句は全く詳しくないのですけども。
最終号では、第1特集「ピッ句の野望」というところに絵を描きました。ピッ句というのは要するに俳画のことです。
俳人さんたちの間で「俳画というと墨絵っぽいから、新しい呼び名を考えよう」という意見が出て、ピクチャー→ピッ句チャー→ピッ句となった模様。はい、要するに駄洒落です。同人さんたちの俳句に触発されて、絵描きたちも俳画を展開させようというわけです。
私は山田耕司さんの「少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ」という句を選びました。
さて、この句はいったい何を言わんとしているのでしょうか。いろいろな受け取り方ができます。悩みました。
小学5年生の頃だったか、クラスの中で発育の早かったイケダくんの下腹部にはすでにCHINGEが生えていました。プールの日にみんなでイケダくんをからかってパンツを脱がした思い出があります。
少年兵とは文字どおり少年(子ども)と受け取っていいものか。いや、そこは兵だから、ツワモノでしょう。ツワモノが追ひつめられて「パンツ脱ぐ」。かわいさと緊張感とそこからのフリチン。私の頭には入道雲が高い夏の青空が思い浮かびました。
しかし、夏の青空なんか絵にしてもイマイチ面白くないな。俳画は俳句の添え物に終わってはいけないのです。ピッ句の野望がないじゃないですか。
それで描いたのがこの絵です。
少年兵とは童貞のことにしました。少年兵(青年かな?いや、中年だったりして)はドアの向こうの暗がりでまさにパンツを脱いでいるところでしょう。
今回頭を悩ませましたが、実は、いかように読める句の方が絵をつけやすい。「古池や蛙飛びこむ水の音」のような句に絵をつける方がかえって難しいのです。池に蛙が飛び込んだ絵なんて描いても、そのまんまじゃ〜ん!(いや、別に悪いと言ってるわけではないよ……)
〈画ばかりでも不完全、句ばかりでも不完全といふ場合に画と句を併せて、始めて完全するようにするのが画賛の本意である〉
これは正岡子規の、画賛はどうつけるべきかの見解なのですが、これはひっくり返せば、逆に句に絵はどうつけるか、にも当てはまるのではないでしょうか。山田耕司さんの俳句は完璧なのですが、自由な想像を許される不完全さがあるということね。
……正直に告白しましょう。
この絵はわりとうまくいったな!わはははは!うまくいってなかったらこんなに前置きタラタラ述べるかい!
第1特集「ピッ句の野望」はPDFでダウンロードできるので、他の皆さんの作品もお楽しみください!
はい、この話はこれでおしまい。
次、今週の『オトナの一休さん』いきます。
前々回、一休の兄弟子でライバルでもある、養叟(ようそう)が死んじゃいました。そして前回、応仁の乱で京都を焼け出され、一休一行は堺へと逃げ伸びます。
さて今回はそんな重い話とうって変わって、なんと恋の話!第21則『七十七歳の恋』です。
個人的に、今回の一番の見所?というか、何回見ても笑っちゃうシーンがあるのですが、それは二人の仲を調査する、その名も文春(ぶんしゅん)という弟子が登場する場面です。
この文春の鉛筆を舐める舌の動きが傑作なの!動きだけでもおかしかったのに、音がついたらまた可笑しいの!今回の動きをつけてくれたアニメーターは円香さん。いつも音をつけてださるのは井貝信太郎さん。
このシーンは本筋にまったく関係なく、脚本にすらない動きだし、私も鉛筆持ってたら舐めるのがいいかなくらいで舌を出した絵を描いただけなのですが、最高にアホなシーンに仕上がっています。ぜひご覧ください〜。
この絵は「日経おとなのOFF」の「キレる老人の頭の中」というコーナーに描いたものです。
確かに、こんな老人を街でよく見かけるようになりましたが、これは脳の認知能力が低下していることが原因だと書いてあります。60歳代になると理性を司る前頭葉がかなり萎縮してくるらしい。でも、脳が萎縮したせいで怒っているとは自分じゃ気づかないんだからなぁ。
でも、良いお年寄りを見ると、ほんと名作を見るような気分を味わえるので、ぼくは年寄りが好きです。
あまりに頭にきて、ついでに昇天してしまう「憤死」という死に方があります。
誰だか忘れたが昔のローマ教皇で憤死した人がいると高校の世界史の時間で習いました。
そのときおじいさんの先生は「このナントカナン世は怒りのあまりに死んでしまったそうなんですなぁ…」と言い終わると教科書から目をあげて、教室中の生徒を見渡しました。
先生の口元には笑いが浮かんでいて、世の中にはこういう死に方もあるのだということを伝えるのが楽しそうでした。
一昨日、相撲が始まりました。
国技館にぶらっと行って二階の好きな席に座って、相撲を見ていた頃が懐かしくなる、今の相撲ブームですが、やはりあの不人気時代を一人で面白くしていたのは朝青龍ですよね。
「親の仇だと思って対戦している」なんて言ったり、怒りの形相がかっこよかったです。キレやすい性格だったけど、体の動きは誰よりもキレがありました。他の力士の1.5倍早かったね。そしてトークのセンスがよかった。
「~でね、~ね」という、語尾に「ね」をつけて喋るのって、たぶん朝青龍の口癖だったのかもしれませんが、あれがリズムが良くていいんですよね。
語尾に「ね」をつけること自体は一般的ですが、朝青龍独特の「ね」に強いアクセントを置く喋り方は文章を区切りやすくする、朝青龍の工夫だなと思いました。相撲の技に工夫を凝らすように、言葉も独特の工夫によって習得していったのでしょうか。
この朝青龍的に語尾に「ね」をつける喋り方は、白鵬や日馬富士、鶴竜など他のモンゴル人力士もやります。
これはぼくの想像なのですが、朝青龍と接しているうちにその喋り方がうつっちゃったのかもしれません。もしそうだとしても、外国人力士が日本語を習得するときに、誰かのマネから入るのは自然なことだと思います。
ところが、最近は稀勢の里も「~でね、~ね」って言うのです。これは相撲界で流行してんのかな(意外なところで朝青龍が受け継がれている?)って思ったのですが、皆さんはどう思いますでしょうか?あ、どうとも思わないですか。はい、すいませんでした。
さて絵、今週(16日放送、19日再放送)の『オトナの一休さん』は第二十則「応仁の乱と一休さん」!
Eテレの番組ホームページはこちら!
中学1年生の時だった。漫才師になりたいと思った。急にそう思いつめた……わけでもなくて、「笑い」は何年も前から私のスペシャルなものだった。
小学4年生までの私は、勉強は中の下、運動は下の下で、目立たなかった。当然、学校生活はつまらなく退屈だった。
人間の友達と遊ぶより、虫を捕まえたり、魚を釣ったりすることの方が好きだった。
海に突き出た堤防で、一人で釣り糸を垂らして、静かな波の間に浮き沈みするウキを見ていると、学校で閉じていた心が遊ぶのであった。
また、魚や虫のカッコイイ形に比べて、人間というのはなんてカッコワルイ形をしているのだろう、と思った。
ところが小学5年のクラス替えで、Y君という友達と仲良くなったことをきっかけに、私の学校生活は急に楽しくなった。
Y君はハンサムで、マンガのキャラを描くのも得意だった。何よりも運動神経が抜群に良かった。そんなクラスの人気者のY君は、どういうわけか私に強い興味を持った。
Y君は毎朝私の家に迎えに来るようになった。私の家は学区域の一番遠いところにあり、私の家から学校に行く途中にY君の家があるにもかかわらずだ。
(ただ仕事の絵だけを載せるのも愛想がないと思い、いつものごとく無理やりに自分の思い出話を書いてます。今週アップする絵は、日本農業新聞で連載中の島田洋七さんの自伝エッセイ『笑ってなんぼじゃ!』の挿絵です。しばらくは少年時代なので『佐賀のがばいばあちゃん』の世界です。挿絵の後に、思い出話の後半があります……えっ?)
Y君は私を「おもろい」と言った。
まったく意外だった。Y君のおかげで私は、自分が時々おもしろいことを言う人間だということに気がづいた。さらにY君は「うまいなぁ」と言って私の描いたマンガの絵を褒めるのであった。
休憩時間にみんなでボール遊びをする時にはこんな具合だ。
チームわけをしなくてはならない。通常は運動神経の良い二人がリーダーとなって、交互に戦力になりそうなヤツを選んでいく。私はいつも一番最後の残り物だったのだが、リーダーであるY君はいつも一番先に私を指名した。他のクラスメートが不思議な顔をしてY君を見つめた。
そんなに私のことが好きなんだ!と驚いたが、その愛の確証は私の気持ちを強くした。
ある日、私は「今日はドッヂボールやなくて他の遊びがええなぁ」と言ってみた。
するとY君はすぐさま賛成してくれて、他のみんなもそれに従った。私の意見が通る。画期的なことだった。
そんなわけで、私は虫や魚との付き合いをやめて、人間たちと付き合うようになった。Y君が私のことを宣伝してくれるので、クラスの中でもだんだんと存在感を増して行った。自分は案外目立ちたがり屋の性格なのもこの頃知った。ついには学級新聞のアンケートにおいて私は「ひょうきん者部門」第1位に輝いた。
中学に上がり、Y君ともクラスが離れ、だんだん疎遠になり、私は元の地味な生徒に戻って行った。また学校が退屈になった。
虫や魚にはもう興味がなかった。心が遊ぶのは、テレビでお笑い番組を見ている時だった。
「芸人になりたいなぁ……」
ちょうどその頃、街のスーパーマーケットの開店イベントがあり、本物の芸人がやってきた。オール阪神・巨人と月亭八方と、あともう一組いたが、今となっては思い出せない。
芸人になりたいなんてことは友達にも言えず、当日は一人で見に行った。人垣の後ろから、背伸びをしながら、漫才と落語の舞台を見た。地方営業にも手を抜かないプロの仕事に非常に満足を覚えた。そしてまた一人で自転車に乗って帰った。
その夜、布団の中で「やっぱ、芸人になるのはやめよう、無理だ」と思った。厳しい修行にとても耐えられない。第一どうやって芸人になるんだ。ぼんやり憧れていた自分が恥ずかしかった。
以上、ハシカにかかったような私の芸人志願期間についてである。おわり。
25、6歳の頃、時代物専門の挿絵画家になると決めた。
その頃時代物を描こうなんていう若者は極めて稀であった。
しかし、自分で決めただけで、仕事はいっこうに来なかった。
無聊をかこつ間に出版界には時代物ブームが訪れ、「それ見たことか」と予想が的中したことに得意であったが、悲しいことに自分はその時代物ブームの波には乗っていなかった。
「あぁ、オレの目論見は見事失敗に終わったことよ…」と時代物ブームの大波を見ながら、砂浜で蟹と戯れているような日々が15年近く続いた。
あの蟹と戯れていた不遇の時間が、コチコチの挿絵画家志望からよろずなんでもイラストレーターへと変態をうながしたわけで、今となっては絶対に必要な時間だったわけだ。しかしいつ報われるともわからない日々の中で「いつまでオレは蟹と戯れてりゃいいんだ!カニめ!カニめ!カニのバッカヤロー!」と我慢しきれず、叫んだものである。
いや、カニはさっき思いついた例えなので、カニのことは叫んでいない。それにこの苦労話は何度も書いたので自分でも飽きているのだが、「無聊をかこつ」という最近知った言葉を使いたくて、つい書いてしまった。
というわけで、いろんな仕事をいただいていても、やっぱり嬉しい時代物挿絵なのだ。小学館の「STORY BOX」で連載していた谷津矢車さんの『しょったれ半蔵』が最終回を迎えたので、今週はその挿絵と、他に単発物、そして今度から始まる新聞挿絵のお知らせです。
ブログに載せる時に、気に入ってない挿絵は省いてしまうのが常だが、この『しょったれ半蔵』はギリギリ全部オッケーということにしておこう。めずらしいことだ。いいことだ。
ところで、あのぉ、ええっと、この雑誌さぁ、イラストレーターのクレジットが小さすぎない?…。欧文なのはいいとしても。
名前がデカいと格好悪いのか?一応こちらも自分の名前を売って商売をしているフリーランスなんである…。この小さい欧文の名前を見ていると、自分たちの仕事の境遇を思い知らせれるようでちょっぴり悲しくなってくる。この件は書こうか書かまいか迷ったが、やっぱり書いてしまった。
「オール讀物」に掲載された平岡陽明さんの『監督からの年賀状』の挿絵です。
このところ「オール讀物」で平岡陽明さんの短編が載る時は、挿絵を依頼されるようになった。作家とコンビのような存在になれるのは、挿絵をつけるものとしては望外の嬉しさがある。
平成の世を舞台にしても、良い意味で昭和な感じが漂う小説を書く平岡陽明さんは、私より絶対に年上だと思っていたが、プロフィールを読むと6つも年下なのに驚いた。四十も過ぎれば、もう年上とか年下とかもう関係ないみたい。年上な感じがする年下の人って、たのもしくていい。平岡さんとはお会いしたこともないのですが。
ちなみに私は32歳くらいで精神年齢がとまってしまった。
「日本農業新聞」で島田洋七さんの『笑ってなんぼじゃ!』という連載が、昨日からはじまった。小説ではなくてエッセイなのだが、新聞小説の欄で掲載される。
「日本農業新聞」が毎日送られてくることになったので、今までとっていたA新聞をやめてしまった。最近新聞も全然読めてなくて…。
「日本農業新聞」は〈青森県 ナガイモ首位奪還へ〉〈JA場所 満員御礼〉といった記事が満載で、これだけ読んでいても世の中のことはわからない。いや、かえって特定の視点から眺めた方が、世の中のことがよくわかるかもしれない。
「シャルリー・エブド襲撃事件」があった数日後だった。
面識のない某女性週刊誌の男性記者から電話があった。
内容は『The New York Times』に掲載された安倍首相の風刺画についての感想と、風刺画が日本に与える影響について、意見を聞きたい、ということだった。
何より驚いたのは、私のところに電話がかかってきたことだ。私は新聞や週刊誌などで風刺画を連載をしているわけでもないし、もろに風刺画っぽいものも、たまに仕事で頼まれて描くくらいだから。
たぶん、「風刺画 イラストレーター」とかいう検索ワードでひっかかったのかな。
電話取材では何と答えたか忘れてしまったし、結局、その記事は編集の都合で掲載されることはなかったのであった。
今回アップしたオバマとトランプの絵も、風刺画ってほどのものではないが、当然頼まれ仕事である。図にするとわかりやすい「ZUNNY」というサイトのために描いた絵です。4月いっぱいはサイトで読めるらしいです。
私は風刺画なんてもともと興味なかった
風刺画と呼ばれる絵はみんな古臭い気がしたし、そういうものしか知らなかった。風刺画が嫌いというより、風刺画のビジュアルに好きになれるのが少なかった。
絵のニュアンスの問題だと思う。
おちょくるのも、ふざけるの好きだけど、ただ、批判が前面に出ているだけっていうのは、あんまり好きになれないなぁ。
思わず笑っちゃって、後で考えたら風刺にもなってるんだなぁ、くらいが個人的には好き。ようは面白ければいいんだけど。
自分の絵が風刺画に向いていると言ってくれる人もあり、いつの頃からか意識しだすようになった。
※これは風刺画か?ただふざけて描いた、銀座の文豪である。
※これは風刺画か?雑誌のアンチエイジングの特集のために見開きに描いた。意図していないが、すごく嫌味な絵でもある。
※これは風刺画かもしれない。「日本美術における戦後民主主義とは何だったか?」というテーマのコラムに描いた絵だ。吉本隆明の「共同幻想論」は読んだことはない。
※こういうのがいわゆる風刺画だろう。
さて、風刺画のお次はパロディといこう。
先日東京ステーションギャラリーでやっていた『パロディ、二重の声 日本の一九七〇年代前後左右』を見て、パロディで面白いことをするのって難しいんだなぁ、とつくづく思った。
展覧会には、寄席にブラックジョークでも聞きに行くつもりで出かけたのだが、肩透かしをくらった。
長谷邦夫さんのパロディ漫画『色ゲバ』(ジョージ秋山と谷岡ヤスジの漫画のパロディ)があったんだけど、これが……ぜんぜん……面白くなくて……。
これらの絵は成相学芸員が出品作のパロディの格好をして解説をしている絵で、たいして面白くないパロディです。どうもすいません。
ちなみに成相肇さんは似顔絵が描きやすい顔なのだが、気を悪くされておりませんでしょうか。
しかし、同業者としては、パロディや、ナンセンスや、風刺画というのは美術のお笑い部門なのだから、笑わせられなかったら負けだぜ……なんていう眼でどうしても見てしまうのである。
実は私はパロディも嫌いだった
『画家の肖像』の絵を描いている頃(2010年)だった。いろんな画家の肖像を描いていると、どうしてもパロディになってしまうことが避けれれない。「わ〜なんかパロディみたいなだなぁ、ヤダヤダ」と思いながら描いていた。パロディはすでに終わったジャンルのように思っていた。
まず、パロディは、一目見て何のパロディか分からなければいけない。しかし、これがクセモノだ。
たとえば、ゴッホの絵をパロディにするとき、ゴッホのタッチのままで何か他のものを描けば、パロディになるけど、それがそんなに面白いの?という話だ。それだけでは面白くない。
「一目見て何のパロディか分からなければいけない」とされるパロディは、宿命的に頭の中で作品の因数分解が簡単にできてしまう。面白さの内容が割り切れると、面白さは瞬時に消えてしまう。
パロディ絵画は言葉に置き換えやすいので、そこがつまらん。
面白い絵を見たとき、それを言葉で伝えるのはとてもむずかしい。頭と体の中にはおもしろさが充満しているのに、なかなか言葉に置き換えられない。きっちり説明ができないからこそ魅力的なのだとも言える。言葉に変換できないものこそが絵の本質だ、と大見得切ってもいい。
だからパロディで面白いものを作ろうとしたら、言葉で簡単に置き換えられないニュアンスをどんだけ込められるかだと私は思った。
これらは『画家の肖像』で「パロディみたいでヤダヤダ」と思いながら描いた絵だ。
炎の画家、狂気の画家、といったイメージを裏切るような安らかな眠りの中にゴッホはいる。『星月夜』は、私にはやさしい静かな絵に思える。ゴッホもいい絵がかけた時は満足して眠った夜もあっただろう。私はゴッホの絵を見て、狂気よりも慰めや癒しを感じる。
高橋由一はニッポンの油絵レジェンドなのだが、描くものがヘン。吊るしたシャケ、ブスな花魁、豆腐と焼き豆腐と油揚げを並べて描いたり……。何を描くがものすごく重要ということをレジェンドはわかっていらっしゃる。というわけで考える画家、高橋由一の肖像だ。決して今晩のおかずを考えている江戸時代の料理人ではない。
『階段を降りる裸体』から『泉』まで一気に現代美術の歴史を進めた大天才デュシャンも小便は我慢できなかった。イエスも釈迦も小便は我慢できなかった。
これらの絵は自分ではパロディと思って描いていない。画家や作品の感想文を、絵で描いているつもりなのだ。結果的にパロディのように見えるなら仕方ないし、あえてムキになって反対する気もない。
パロディが面白くないのは、パロディをしようと思って作るからではないか……そんな気もする手前味噌。
ひょっとして、宣伝?……そうだよ、そうだよ、パロディを超えた絵による絵画論、拙著『画家の肖像』を宣伝するために、ここまでブログを書いてきたのだよ。なんかまだ在庫がいっぱいあって、版元の住居を狭くしていると聞いたから。Amazonでポチれるらしいので、たまには宣伝しようと思いましてね。1冊くらい売れてくれとる嬉しいのですが……。
おわり。
新潮社から3カ月連続刊行されるビートたけしさんの『たけしの面白科学者図鑑』、シリーズ第3弾『人間が一番の神秘だ!』のカバーを描きました。4月1日発売です。ついにこのシリーズも完結です。さっそく、カバーと他のアナザーバージョンのラフをご覧ください。最後のアイデアがいいんじゃないかということで、もうひとひねりして、人類の進化コマネチにしてみました。ご覧のように、この時点ではコマネチポーズはみんな同じだったのですが、「人類の進化に合わせて、コマネチポーズもコマ送りにしてはどうか?」という提案が新潮社からありました。そして、コマ送りがわかりやすいように編集部のエラい人がコマネチを決めている連続写真が、資料として一緒に送られてきました。楽しい……。こんなことをされると自然に微笑みがあふれ、ガンバロ〜!という気になります。さすが仕事が丁寧な新潮社です。
なお、この編集部のエラい人(気を使って私の方で顔を隠しておりますが)はまだそんなにエラくない時に、本の宣伝でスーパージョッキーの熱湯コマーシャルに出た経験がおありだとか。その本(ムック)は1999年に出た『新潮45別冊2月号コマネチ!ビートたけし全記録』であります。私も発売時に買い、熟読したものです。
こちらが原画。実際のカバーではバックの色が少しハデ目になっています。
先日、3月26日放送の『TVタックル』でたけしさんが本を宣伝するという情報を聞き、テレビの前で待ち構えていました。短い時間でしたので、特にカバーの絵については何も触れていませんでしたが、ま、たけしファンにとっては記念すべき出来事でございました。
殿のお顔の下に私の名前もちゃんと入っております。これもファンにとっては記念であります。
さて、自慢話はこの辺にして、内容の方にも触れてみたいのですが、3巻のラストを締めくくる対談のお相手が、西江雅之先生という方でした。私は本当に無知蒙昧な人間で、西江先生を今まで存じ上げなかったのですが、めっちゃオモロイ先生なんですよ!
いいお顔ですね〜。西江先生は子どもの頃から変わってます。野球とか普通の子が夢中になるようなことには興味がなく、そのへんにいる虫や生き物を捕まえて食べていたらしいです。そのへんの生き物を食べちゃうのは、大人になって文化人類学のフィールドワークのために未開地に入っていくときもやっています。そのせいでお腹こわさないんだって。
〈人間は、生活のあり方に絶対的な根拠がない動物なので、時代ごとに、地域ごとに、次々に根拠を作り、そして作り替えていく。しかし、今や、「人類の根拠」なるものを作りはじめている。世界中の人間が、たった「一つの文化」という物語を信じはじめている〉
対談のラストで、西江先生はこうおっしゃいます。ここだけ聞くと、「まぁ、そうだよなぁ、それぞれの文化を大切にしないとなぁ」と思うでしょう。その時頭に何が浮かんでいますか?着物を着た生活ですか?ご近所同士の醤油や味噌の貸し借りでしょうか?はたまたブッシュマンのような狩猟採集民の生活でしょうか?
甘いですね。西尾先生が話してくれる世界の多様性は私たちの想像を超えています!「母乳の代わりに精液を飲ませる文化」とか「親父が息子と出会った時に、挨拶代わりに息子のポコチンを握る文化(息子の息子だから孫を握ることになる、とか言って二人で爆笑しています)」とかね。もっといろんなことが対談で話されています。
西尾先生のプロフィールに「エッセイの名手としても知られる」と書いてあって、すっかりファンになった私はさっそく先生の本を注文しちゃいました。ただ、残念なことに先生は2015年に77歳でお亡くなりになったようです。
しかし、本が次の本を紹介してくれました。いや〜読書って素晴らしいですね。ぜひ『たけしの面白科学者図鑑』シリーズを買いましょう!