先月、生まれてはじめて健康診断を受けた。
結果は要医療が1つ、再検査が2つ、経過観察が4つもあった。年齢より若く見られるのに、中身は完全なオッサンだったわけだ……。結果の通知には「不摂生を排除して再検査を受けましょう」と書かれていた。恐怖心がお酒の誘惑を上まわったので、その日からピタリと酒をやめた。
するとどうだろう、三日目あたりで、顔がすっきりした。特にむくんでいる自覚もなかったが、実は顔がむくんでいたようだ。同時にお腹周りの贅肉も少なくなった。なんてこった、とんだ毒水を飲んでいたもんだ。
もともと食事の味は濃い方ではなかったがさらに減塩し、羽根木公園に運動に出かけるという極端な日々。楽しい飲み会でも一滴も酒を飲まず、ひたすらノンアルコールビールを飲み続け、ある店では在庫の全てを飲みつくしてしまったこともあった。
そして毎日のように、引っかかった項目をネットで調べる。特に、眼底に軽度の異常が見つかったのが恐ろしい。もともとド近眼で裸眼では0.04しか視力がない。強度近視の人は眼の具合が悪くなる確率は普通の人より高いらしい。そういえば、最近さらに眼が悪くなったような気がする。
「いかん、こうやってスマホで病気のことを調べていること自体が、眼に負担をかけているかもしれない」そう思って、スマホをポケットに入れて、揺れる電車の中(余計に眼に悪い)から、車窓の遠くの木の緑を見つめるのであった。
検査結果にビビって3週間、禁酒と適度な運動を続けた後、再検査を受けるとすべての数値は基準値以内におさまっていた(血圧だけは低くならなかった。高齢者並だという)。
「はじめて健康診断受けてビックリしちゃったのね」と病院の先生は笑っていた。どおりで自分の不健康の話を年上の人に話しても、誰もまともにとりあってくれなかったわけだ。「なんだ四半世紀ほぼ毎日酒を飲んでいたのに、たった3週間やめただけで、元に戻るのか……」そう安心したが、なぜか快気祝いの祝杯はノンアルコールビールを飲んだ。
ノンアルコールビールにはまっている。だいたい私はビールを数杯飲んでも酔っ払わない。それなら家で飲むときは、ノンアルコールでもいいじゃないか。味もなかなかいい。ビールの不味いメーカーのノンアルコールビールの方がなぜかうまい。
もっとも心配だった眼も再検査を受けたが、今のところ問題ないようだ。最近視力が落ちたと感じるのは単なる老眼の症状だった。
酒もこれからは適量をわきまえて飲むことにした。休肝日は週4日!
……99歳まで生きたい。ところで、生きて何をするのだろうか。仕事もなければ無意味な時間が延長されるだけかもしれない。しかし長生きも芸のうち。
はい。そういうわけでございまして、どうでもいい話はおわり。
続きまして、代わり映えしない仕事の報告。
今週は、一年以上前に終わっている連載の絵を載せまする。UCカードの会員誌「てんとう虫」で連載されていた泉秀樹さんの「女もすなり益荒男日本史」に付けていた絵です。歴史の中の女性に焦点を絞った内容でしたが、女性の肖像画というのがほとんど残ってないので、多くは私の想像です。大浦慶
大浦慶は江戸末期の長崎油商の娘として生まれた。はじめて日本茶を輸出して巨万の富を得た女傑だそうだ。幕末に長崎が開港して、ロシア、イギリス、オランダ、アメリカと自由貿易が許可された直後に、茶の貿易を始めたそうなので、先を見る目がある。もう一人、先見性に富む人物、坂本龍馬も同じ頃、同じ長崎で日本最初の株式会社「亀山社中」を設立したそうな。それで、こんな絵にしたんだっけかな?
ブログに載せるために見直したので思い出したが、とっさに「大浦慶って誰でしょう?」って聞かれたら、答えられない。一年前のことでもどんどん忘れていく。でも絵に描くとなんとなく頭に残るものではある。
和宮と篤姫
皇女和宮は14代将軍家茂の嫁であるので、前将軍夫人の天璋院篤姫は姑だ。嫁は命投げ打つ覚悟で、徳川存続と戦争回避を訴え、姑は旧知の西郷隆盛に働きかける。江戸城無血開城を実現させた公家、武家女傑二人の高き誇り……というわけで、江戸城無血開城の主役二人が屏風の後ろから感謝している絵にしたんだったよな。
仕事の時は最低でも2回は原稿を読み直すが、これも忘れていた。嫁と姑の関係だったんだ。人間というものはだいたい35歳を過ぎると吸収力がガクッと落ちると聞いたが、その通りだ。
松尾多勢子
女ながらに尊皇攘夷の志士であった松尾多勢子。しかも活動しはじめたのは50歳を過ぎてからだという。ある時は農婦に変装し、またある時は行商人に変装し、情報収集や連絡係になったという。もし今、松尾多勢子をドラマ化するならもちろん「鬼平」で密偵おまさを演じていた梶芽衣子で決まりだな。
浅井三姉妹
長女・茶々(淀君)、次女・初(常高院)、三女・江(崇源院)。中でも江は三婚して、計二男六女生んでいる。それで江の元にやってきた姉二人が甥や姪をあやしている絵にしたんだな。〈三姉妹がそろって政治の現場で歴史を動かした日本史上唯一の例である。いや、今でも動かしている。今上天皇も江の血をひく子孫の一人だからである〉と本文にあった。
春日局
春日局こと福は三代将軍家光(竹千代)の乳母になるや、瞠目すべき官僚の才を発揮し出す。〈まだ柔らかかった幕府の甲羅に堅固で硬質な輪郭をあたえた〉ほどの名官僚だという。さぁ、これをどう絵にする?……って悩んだ挙句にこんな絵にしたんだろうな。
はぁ、毎週火曜日更新という自分に課した約束を守るためだけに、今日も更新したぞ〜。面白い記事をみんなに読ませようと思って、更新しているわけじゃないんだからな〜。おわり。
「てんとう虫」で連載中の福島泰樹さんの『短歌倶楽部』に絵をつけています。
この連載、自分にしてはめずらしくギャグが禁じ手となっております。福島泰樹さんの原稿を読むと、確かに冗談をさしはさむ雰囲気ではありません。
いつの頃からか絵には冗談を必ず入れるという芸風になってしまいました。頓知を効かせた絵というのは、出来不出来はあるとしても、冗談さえ思いつけば、仕事の8割は終わったようなもの。
ところが、冗談を禁じられるとポエムで勝負しなければいけません。
ポエムとはつまり絵に漂う詩情でしょうか。
絵のアイデアよりも絵自体の良さで、読者の皆様を説得せねばなりません。ところが私は色感がそれほど良くないし、描写もモノの説明の方が得意なので、ポエムのある絵がヘタなんですねぇ。こまりました。
升酒やあかるいひかりてらしてよ力石徹 ウルフ金串
笑うため仰向いて飲む冷酒や酒のコップ三杯さよならを言う
第1回の絵。
福島さんの短歌に添える絵というより、エッセイ全体に添える絵として描いているのですが、結果的に即物的な絵になっちゃうなぁ。升酒描いたり……。敗北の涙ちぎれて然れども凜々しき旗をはためかさんよ
稿用紙の上にたばしる時雨あらば孤立無援よ濡れてゆくべし
第2回の絵は高橋和巳さんの横顔です。
切なさや漣のように襞をなし押し寄せてくる憶い出なるよ
もう誰も知らないだろう六〇年代戦死者の花雨に濡れおる
第3回絵は学生運動の絵、ずいぶん”そのまんま”な絵だなぁ。
野枝さんよ「虐殺エロス」脚細く光りて冬の螺旋階段
しなやかな華奢なあなたの胸乳の闇の桜が散らずにあえぐ
第4回の絵はかつて新宿にあった「アートシアター新宿文化」の前に伊藤野枝がいる絵。絵にはやっぱりアイデアが必要なのか。アイデアが入ると描きやすいのは確かなんだ。
上を向いて歩けば涙は星屑のごとく光りてワイシャツ濡らす
小劇場澁谷ジァン・ジァン打揚げの三平酒寮の灯も遠く去る
第5回の絵はこれも今はなき渋谷「ジァン・ジァン」に出演する福島さん、そのステージを見る永六輔さんの絵。
魂の奥底ふかき挫折さえ乗り越えて来し霧のリングよ
愛しきは酒と稲妻、なやましく丼に酒あふれせしめよ
第6回は日本ライト級王者バトルホーク風間さんの絵。
整然と並びしメット真輝けり わが哀傷の カルチェ・ラタン
さようなら寺山修司かもめ飛ぶ夏 流木の漂う海よ
第7回は「月例絶叫コンサート」をしている福島さんの絵。吉祥寺にあるライブハウス「曼荼羅」で毎月十日に開催されています。開始して三二年目です。ここの会場に限らず、福島さんのコンサートは有名なのでご存知の方も多いでしょう。去年の冬に私も見に行きました。ダンディズムあふれる福島さんですが、結構冗談好きみたいで、笑わせてくれる場面も多かったのが、意外というか、自然でした。
というわけで、毎回苦戦している連載です。
そういえば、今月売りの「小説すばる」で私の半生記兼バイトくん物語であるところの『ぼくの神保町物語』が最終回を迎えていたのだった。
前回掲載分も含めてザザッと紹介して(と言っても挿絵だけ)ササッと逃げたい。
まずは前回(第12回)の『新しい絵』から。
この扉の絵は2010年12月、原宿の「リトルモア地下」で開かれた個展『画家の肖像』で描いた自画像です。
昨日のことのようだがもう7年前。人生は加速度的に時間が過ぎる。この回は個展の開催から2012年12月でバイトを辞めるまでの話。
やっとたどり着いた最終回は『苦いような甘いような味覚』というタイトルにしてみました。絵も誰だって描けるけど、文章だって誰だって書けるワイ!と思ってやりはじめた連載だったが……1年は長かった。
この扉の絵は30代前半の頃を想定して描いた、バイト先で働く私である。まだ髪の毛がたくさん生えている。
前回でバイトを辞めるまで話が進んだので、最終回では私は神保町を離れている。
神保町物語はバイトを辞めた時点で終わると思いきや、実はそこで終わりじゃない。むしろそのままでは『ぼくの神保町物語』は始まってなかったと言ってもいい。
運命が私に神保町に戻れと言った。そして私は神保町に戻った……なんて書くと大げさだが、私自身、神保町のことを書こうと思ったことはなかったのだ。「19年も神保町でバイトしててさ〜」なんていうただの思い出話だった。
ある人の提案により、19年のバイト人生=神保町時代が物語としてあらわれた。「伊野くんがバイトしてた神保町をテーマに絵を描けば?それで展覧会をしよう」と。
最初は「そんなテーマで絵が描けるのか?」と思ってしぶっていた。
まずは短い作文を書いた。そこから絵を描き始めた。
私は神保町博士ではない。街に詳しいわけではないのだ。限られた範囲で、来る日も来る日も毎日同じような行動をしていただけ。
嬉しい時にはルンルンと、悲しい時にはトボトボと、悔しい時にはコンチクショウと、いろんな気持ちで職場のある街をボーッと眺めていただけ。
でも、個人的な気持ちがなければ、絵は普通の絵にしかならない。
展覧会は2015年に開かれた。
『ぼくの神保町物語』は展覧会だけで終わるはずだった。
そうならなかったのも神保町という街のおかげ。神保町の街に送ったメッセージに、思いがけない返事が帰ってきたみたい。何がどうしたのかって?それはネタバレになるからここではヒミツだ。
ところで「自分と街」というテーマ、別に私だけじゃなくて、すべての人が書けるテーマだ。「私と街の物語文学全集」なんていう企画がないだろうか。古今東西のそういう話を集めたアンソロジーを読んでみたい。
新潮社から3カ月連続刊行されるビートたけしさんの『たけしの面白科学者図鑑』シリーズの第2弾『地球も宇宙も謎だらけ』のカバーを描きました。3月1日発売です。わかる人はわかると思いますが、たけちゃんの立っている星は『星の王子さま』風になっております。
さてカバーのラフとアナザーバージョンです。コマネチ座を見上げるたけちゃん。
このラフを描いた時はたけしさんの『嘲笑』という名曲を思い出していました。
たけしさんの書く詞の世界(北野武作詞、玉置浩二作曲)と、このシリーズでのたけしさんが重なって感動してしまいます。
星を見るのが好きだ
夜空を見て考えるのが
何より楽しい
百年前の人
千年前の人
一万年前の人
百万年前の人
いろんな人が見た星と
僕らが今見る星と
ほとんど変わりがない
それがうれしい
織田信長が好んで謡い舞った「敦盛」には、〈人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり〉とあるが、その後平均寿命はのびて、なんとある予測では、今の20歳の若者の半数は100歳まで生きるそうだ。そして50歳の人の半数は92〜96歳到達するという……そんなことが今売りの「日経おとなのOFF」の特集「100歳まで破綻なし!金持ち老後のマネー戦術」に書いてある。私は99歳まで生きて”史上最長寿のイラストレーター”になるつもりでいるのだが、正味な話、長生きしても仕事が途絶えれば、国民年金だけでは暮らしていけない。フリーランスは老後をどうすればいいのだろう。15年くらい前に読んだ山本夏彦さんの本に〈才能というものは、のぼり坂が三年、のぼりつめて三年、くだり坂が三年、〆て十年続けばいいほう〉とあったのが頭にこびりついている。我らがイラスト業界を見ると、30年40年50年……と才能が続く大先輩もいるが、これはきわめて稀なことだ。
自分の才能はいったい今どのあたりなのだろう?もしかしてピークを過ぎているかもしれない。というか、自分で自分のピークがわかるのだろうか?くだりきった後だったら、振り返ってわかるだろうけど。とにかく自分の才能が10年で終わらないように願うばかりだ。なにしろ老後に入ってくるお金は国民年金だけなので。 富岡鉄斎は老いるほどに絵が自由になり、89歳の最晩年に画業はピークを迎えた。本人は「絵は余技」だと言っている。
仕事が途絶えないことも大切だが、絵を描く境地が自由になるのは羨ましい。どうしたらそうなれるのだろうか。
富岡鉄斎のことが大好きな原田治さんが70歳で亡くなった。築地のパレットクラブの落語会を聞きに行った時に、一度だけお顔を見かけただけで、お話ししたことはもちろんない。でもブログはけっこうチェックしていた。原田治さんの『ぼくの美術帖』に取り上げられている画家の多くが私の好きな画家とかぶっている。
谷口ジローさんも亡くなった。69歳。2年前に、三度お会いして、少しお話ししたことがある。当時はお元気そうだったが、それでも最近は仕事の時間を減らしている、と話された。聞けば8時間くらい(もしかして10時間だったかも?)とのこと。私など8時間も描いたらヘトヘトになってしまう。今思えば貴重な機会だった。もっといろんなお話を聞けばよかった。緊張するのでつい遠慮して、しゃべりやすい友達がいる席にずっといた。
いけない。トイレに立ったタイミングで積極的に席移動しなければ。
でもこのトイレから立つタイミングで席を変わるというのが、立ち去られた側の気持ちを勝手に忖度してしまい、私はなかなかできない……そんな話はどうでもいいのだが。
私は人に年齢を聞かない。
セツ・モードセミナーに通いはじめたとき、長沢節先生に「ムラマツ先生ていくつなんですか?」とセツの講師の人の年齢を聞いたら「知らない。オレ人の年なんて気にしたことないのよ」と言われた。私はガツーン!とゲンコツを食らった気持ちになった。その時以来、人間を年齢という物差で測ることのあさはかさを思い知り、聞かないことにした。たとえ気になってもだ。初対面の人が同い年だったり、一回り二回り違うと、それで話も盛り上がったりするので、聞いてみたくなることもあるが、なるべくこちらからは聞かない。そういう時に相手が聞いてくれると、ホッとする。そして案の定、年齢の話で盛り上がったりする。しょせん私は長沢節とは器が違うということだ。長沢節先生、生きていれば今年で100歳。
自分が死ぬ時ってどういうことを考えるのかなぁ。この話は前にもブログに書いたけど、小学5年生の時に夜の港で死にかけていた時は、しょっからい水を飲み込みながら、月を見あげて溺れていた。死ぬのか?死ぬのか?死ぬのか?たぶん死ぬんだろうな……と覚悟をしながらも、泳げなかった私は体力が尽きるまで、必死に手足をバタバタさせているしかなかった。やがて月をバックに岸壁に人影が現れて、その人影は海苔の養殖に使う長い竹を私に差し伸べていた。リアル蜘蛛の糸的思い出話。命の恩人に家まで送られて、洗面所の鏡の前に立った時、突然死の恐怖が襲ってきて、大泣きしたことは覚えている。あぁ、私は今から死ぬのが怖くて仕方ない。
とりとめのないことを書いている……。どうやって今週のブログをしめようかな……パソコン画面から目を外して、伸びをして部屋を見渡したら、畳の上に散らかった本の帯が目に入ってきた。〈生がある以上、必ず死はある。これが得心できないことが迷妄であり、この真理に目覚めることが「覚り」なのである。仏教の核はほぼこれにつきている〉呉智英さんの『つぎはぎ仏教入門』という本だ。
……というわけで、自分は死ぬ前には真理に目覚めておきたい。今から目覚めていても、また迷妄することもあるだろうから、死ぬ直前でいい。ま、先のことは考えてもわからんから、考えるのヤメじゃ! ……。
追記:昨日の夜にシメサバを食べたら、あたってしまった。症状を自己診断するとたぶん胃アニサキス症だと思う。周期的にお腹が締め付けられるように痛くなる。仮にアニサキスだとすると、お腹の中に虫がいることになる。この虫は人間には寄生できないので数日で死ぬらしい。くたばってたまるかぁ!と虫は虫なりに死ぬまでジタバタするので、お腹が痛くなる。胃カメラを飲んでこの虫を取り出せば症状はすぐに治るようだが、去年検査で胃カメラを飲んだ時に死ぬほど苦しかったのだ、胃カメラ自体が。考えものだ……。