今売っている「芸術新潮」に描いた北斎の年譜パートの絵。横に長い絵なので、無理やり縦に載せます。北斎は若い頃に浮世絵の彫り師をやっていたとは知らなんだ。あと意外に遅咲きで、四十過ぎてから自分の絵の世界がひらけたようだ。もし若くして死んでいたら北斎は北斎でなかったのだ。北斎は引越し魔だったことは有名だが、人気絵師になってからもなぜかずっと貧乏暮し。なぜか?その謎は未だにわからないんだって。今回の特集で一番惹かれたのは読本挿絵の絵。「北斎漫画」は知ってるつもりのところがあったけど、見開きいっぱいところ狭しと動きまくる読本挿絵は僕にとって新しい絵だった。もっと見たいと思ったが、北斎読本挿絵集成〈第1巻〉 (1971年)というのを検索すると10万円以上するではないか!しかも5巻まであるらしい。北斎漫画はいっぱい本があるけど、読本挿絵を廉価版でいっぱい見たいなぁ。そういう本てあるのかなぁ?あったら欲しいなぁ。さて、こちらは、ちょっと前になるけど「散歩の達人」に描いた絵。
中野坂上、中野新橋、中野富士見町、方南町の4駅は地下鉄丸ノ内線の支線。こういう支線を盲腸線(幹線から枝分かれした短区間の行き止まり線)って言うんですってね。
僕はライターの和田静香さんと一緒に中野新橋を訪ねました。和田さんは相撲好き、僕も相撲好きということでコンビを組んだのですが、中野新橋にはそうあの「貴乃花部屋(つまり旧・藤島部屋、旧・二子山部屋)」があったんですねぇ。でも今は引っ越しちゃってないんです。ないのにその残り香を求めて訪れたのです。
閉鎖された部屋の建物はそのまま残っていましたが、看板が剥がされた跡は未だ生々しい。あいにく天気も悪い。部屋の近所の人に話を聞こうとするも皆一様に口が重い。まぁ、今まで散々マスコミにうるさく聞かれて、皆さん文字通り閉口してしまったんでしょうな。こっちはただ古きよき日の思い出話が聞きたかっただけなんだけど、なかなかネタが拾えず、焦ります。
ところが「上州屋」って言う弁当屋のおばちゃんが気さくに語ってくれました。そしてすっぽん料理の「久松」の大将(現・商店街の理事長)もいい思い出話を聞かせてくれましたよ。これで土俵際まで追い詰められていた取材は、うっちゃりで一気に攻勢に。
「藤島部屋は当時まだ華やかだった中野新橋の花柳界、その中に建てられたんです。ずいぶん粋でしょう。親方はそれで忙しいようで(笑)見せてもらったスケジュール帳は真っ黒でした(後略)」と語るのは「久松」の大将。
部屋の力士が優勝すると、北海道からシャケ100本とか、2トントラックで賞品が次々に届くので、親方自ら大将のところに「おやじさん、頼むよ」ってお願いに来る。日頃迷惑をかけている近所の皆さんに配ってほしいと言うことね。そういう人情味のある話を聞けましたよ……って、まぁ、話を聞いたのは和田さんですけどね。僕は和田さんの付き人みたいなもんで……。
童心社より紙芝居が発売されました。『ぼうさまがくれたにわとり』と言います。もともと民話として残っているお話をもとに、津田真一さんが脚本を担当されています。
以下このブログで書くあらすじは、セリフも含めて津田さんの脚本ではなく、私がこんな話だったよな、と思い出しながら書いていますので、ホンモノの脚本とは話の流れ以外はずいぶんと違います。ホンモノを読みたい方は是非、買ってみてください。ホンモノはお子様や、紙芝居を演じる幼稚園の先生方のために、練りに練って書いてありますので。あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。でもおばあさんは体の具合が悪く近頃は床に臥せっていることも多く……。箱根七里は馬でも越すが、越すに越されぬ年の暮れ、と昔の人はよう言うたもんです。「ばぁさん、わしゃこの炭を町に行って売ってくるからなぁ」とじいさんは出かけていました。ちょうど時期的に今頃の話ですなぁ。「炭はいらんかねー、炭はいらんかねー」とじいさんは必死になって売りましたが、ちっとも売れません。みんな冷たいのね。それとも炭はすでに買ってあるのでしょうか。そうだったら、この町の人は用意のいい人です。そんなじいさんに声をかけた一人のぼうさま。みればボロボロの着物で、そこらへんの落ち葉などを集めてたき火をしていますが、寒そうです。じいさんの持っている炭を全部くれというので、じいさんもホクホク顔。ヤッター!ヤッター!。ところが、金はないんだって言うんですよ、このぼうさん!ええ〜!「その代わりと言ってはなんだが……」と傍に落ちていた木片を拾って、小刀で何かを削り出しました。削り上げたのは、にわとりの木彫。ジャ〜ン!「これでどうかひとつ」「ワシにくださると……??」とじいさんは戸惑っています。だって、これじゃばあさんに何にも買って帰れないじゃないですか。今年の年の暮れは、マジで越せないかもしれません。
さぁ、これから話はどうなる!?絵的にはこの後の展開のシーンが気に入っているのですが、全部見せちゃうとアレだから……。
子どもっていうのは、紙芝居や絵本の気に入ったものを何度も「読んで!読んで!」とせがむヤツらなので続きの絵も見せたって大丈夫な気もするんだけれど、やっぱりそれは童心社の人に悪いので、この続きは紙芝居で!
この絵は紙芝居のケースに貼ってあるラベルの絵です。来年は酉年ですよね。ぴったりのお話です!というわけでよろしくお願いいたします。
「ぼうさまがくれたにわとり」は童心社から発売中!
小説現代で連載中、岡崎大五さん『世界満腹食べ歩き』。14回からはモノクロページに移動になった。岡崎さんの旅は素晴らしい。お世辞じゃなくて毎回面白い。イラストレーター冥利につきるというものだ。
しかし、この連載には私の鬼門の「地図」がある。
この連載をアップする時はいつもボヤいているが、地図を描くのが苦手だ。「だいたいでいいじゃん、だいたいで」そうやって今まで生きてきたのだが、地図にはそれが通用しない。
読者の立場で言えば、いい加減で雑な地図が、雑誌に載っていると興ざめしてしまう。雑誌の記事は、読者の想像力をかきたてるイリュージョンだ。地図もその一端を担っている。だからちゃんとやらないといけないわけ……。
アメリカのニューヨークの位置がわかるようにするには、まわりはどの程度の広域で描けば良いか?グリーンウッド墓地がわかりやすく見えるようにするにはどういう工夫が必要か。入れる地名はどこを選択するか?州の名前は欧文にして目立たなくした方がいいかも。綴りは間違っていないか?
こんな簡単な地図でさえ、雑な私には大変だ。
デザイナーの日下さん、担当の編集さん、校正の方に、ここが違う、ここをもう少しこう、誤字脱字あり……とピンボールマシンの球のようにあっちからこっちから修正の指摘を受け、やっとの事で描き上がって、掲載されるのが上の誌面のサイズ……。悔しいから今回から地図だけ別に載せる!でも、私は地図が苦手だけあって、残念ながらあまり楽しい感じに描けていない。このモロッコと次のマレーシアは地図が簡単で助かった。岡崎さんの原稿が送られてきて、「あー面白かった」という感想の後に来るのは、地図が大変かどうか。簡単だとほっとする。1960年代半ばに「イラストレーション」という言葉が日本で使われだし、すぐに「イラスト」と略されて使われるようになった。単に長ったらしいから略されただけなのかもしれないが、最初に略して使い出したのはどこだろう?一説によると「イラストマップ」がきっかけとか?いや、よく分からないが誰かがそう言っていた。
確かに「イラストレーションマップ」だと長すぎるし、絵のたくさん入った賑やかな地図は「イラストマップ」と軽く呼ぶ方が合っている気がする。今も雑誌ではイラストマップは目にするが、とても楽しいものだ。『世界満腹食べ歩き』で僕が描いているのは単なる地図で、「イラストマップ」と呼べるものではない。 その国の雰囲気は扉絵や料理の絵でも出すようにしているけど、それだけじゃ読者の方は脳内トリップできない。やっぱり地図がないと。グアテマラと聞いて、すぐに場所がわかる人はそう多くはない。こういう場合は広域図も広くとらないといけない。
別にきちんと地図を見てもらわなくても、パッと見て、「あ、あのへんの国の話なんだ」「字が読めないくらいに小さいけど、ちゃんとした地図っぽいね」と思ってもらえればそれでいい。いや、一字一句文字校正までしてやってるんだけど〜。それが我々の仕事だから〜。正確に描くことが地図の本当の難しさではない。地図の本当の難しいところは省略することだ、と前にも私は書いた覚えがあるが、このロンドンの地図ほど身にしみたことはない。
道路と鉄道と地下鉄が地獄。道だって本当はもっとたくさん通っているが、省略しないことにはゴチャゴチャになってしまう。でも都市らしさは欲しい。さすがのグーグルマップも省略はしてくれない。自分の知っている街だったら省略作業も見当がつきやすいが、ロンドンは6年前にちょっと行っただけ。よくわからん。
「この道はいらん」「ここはなくてもいいか。いや、この通りは、鉄道と交差しているから重要かも」私は血管をつまんで考え込む執刀医のようだ。そうやってなんとか省略手術を終えたつもりで、ラフを作って見せると
「地下鉄が良くないですね。ウォールター駅は鉄道、ウォールターではなくウォータールーです。チャリングクロスも鉄道。ヴィクトリア駅(ビクトリアでない)も鉄道。右横のシティ・テムズリンク駅らしきところも鉄道。リヴァプール(リバプールではない)・ストリート駅の駅名が該当のところと離れ過ぎここの駅には地下鉄は乗り入れていない」「大英博物館がここなのはおかしい」「ロンドン塔を、中にある建物のひとつであるホワイトタワーだけにするのは変かもしれない」「B&Bがそれらしく見えるようにアイコンを工夫して」とデザイナーの日下さんから細かくチェックが入る。日下さんは地図が大好き。いや〜ほんと、チェックする方もする方、ようやる!いや、お世話かけております。
で、たっぷり一日仕事になったロンドン地図であるが、掲載サイズはほぼ名刺くらいなんだよなぁ。でっかいサイズで地図描きたいなぁ。いや、描きたくない、描きたくない。
ウチの最寄の下高井戸駅の近くに「ぽえむ」という喫茶店があり、しょっちゅう利用しています。
かつては植草甚一さんもよく訪れていたとか 。
で、ウチの家の近くにもう一つ「ギャルリ・ド・ぽえむ」という喫茶店があります。「ギャルリ・ド・ぽえむ」は全国にある「ぽえむ」チェーンのオーナーの住居兼店舗らしいのです。そして名前からするとギャラリーにもなっているみたい。
しかし「ギャルリ・ド・ぽえむ」は住宅街の中の一軒家でした。看板こそ出ていますが、入るにはなかなか勇気がいります。なにしろこの町に住んで八年、私は毎日「ギャルリ・ド・ぽえむ」の前を素通りしていたのです。
はじめて行ったのは去年の夏でした。ちょうど「ぽえむ」で童心社のNさんと打ち合わせをした日のことです。Nさんは「私、ギャルリ・ド・ぽえむで知り合いの作家さんが展示をやっているので、そっちも見てから帰ります」というので、「この機会を逃したら、永遠に行かないかもしれない……」と思った私は、連れて行ってもらうことにしました。ついに入店する日が来たのです!
……で、実際行ったら、とてもいい感じのお店だったんですが(特にオチはなし)、その日たまたま、くもん出版のHさんという、とても品のいいおじさまがいらっしゃいました。しかもHさんは下高井戸在住の方でした。HさんとNさんはお知り合いということで、私もついでにご紹介していただきました。
その後、折に触れ「くもん出版から仕事よ来い〜来い〜」と念じておりましたところ、今年の春頃、運良くHさんから仕事がきました。ラッキー!
実はここも住居兼喫茶店(2階を見上げるとしばしばベランダに洗濯物が干してあります)なのでした。下高井戸の入りにくいお店その2です。店の名前はドイツ語の造語らしく、読み方がわかりません。店主に尋ねると「フィシッフ キュッヒェ」と発音するらしいです。覚えにくい……。この時点で入店へのハードルが高くなっています。
「いや〜暇ですよ、今日のお客は伊野さんがはじめて」とか「開店当初(今年の1月にオープンした)は友達も予約を入れてくれたけど、最近減ってるし」とか、ハードルを上げておきながら、ぼやいている店主は、かつて新潮社装幀室にいたデザイナーの二宮大輔さんであります。彼はフリーになってから仁木順平という名前でやっています。ややこしなぁ〜。
お店の名前も読めない上に、お店のホームページの地図が、初めて訪れる人には大変わかりにくく、だいたいそのホームページがドイツ語で(日本語は必要最低限しかない)さらにわかりにくいのです。ますますややこしいなぁ〜。
「なんで仁木順平っていう名前にしたの?」と聞くと
「安部公房の『砂の女』の主人公の名前なんです。その男は行方不明になってしまうのです」と仁木順平は答えました。
つまり、この男はワザとわかりにくくして楽しんでいるフシがあるのです。そんな下高井戸ミステリーを味わいたい方は、勇気を出して行ってみてください。ホームページで営業日を確かめてからね(営業日を確かめるだけでも、まずドイツ語、その下に英語で書いてあって、見てるとだんだんムカついてくるんですけど〜)。
ドイツワッフルとスパゲティがおすすめです。お酒も安く飲めます。何人かで予約するとコース料理も出してくれます。
あ、そうだ。お店に行ったら「fischiff 」の名前の由来を店主に聞いてみてくださいね。結構いい話が聞けますよ。
まずは、似たようなタッチの仕事を二つ。一つ目は双葉文庫、早見俊さんの「千代ノ介御免蒙る 巫女の蕎麦」番付侍シリーズの3冊目。デザインは長田年伸さん。二つ目は角川文庫、井沢元彦さん「はじめての古寺歩き」。デザインは須田杏菜さん。最近、アニメ「オトナの一休さん」の絵を描いているから、前から気になっていた禅に興味が向いている。
日本美術を見ていると、例えば、若冲、蕭白、蕪村らの時代の絵も、禅の影響があるとか、禅の高僧の誰々と友達だったとか、色々ある。当時、禅はどんな存在だった?カルチャーか?あれ、蕪村って浄土宗の僧侶だったよな、とかおぼろげな自分の知識が余計にややこしくする。
この「はじめての古寺歩き」の中にも禅のお寺への影響が書いてある。
〈そもそも禅というのは、中国で起こり、日本に伝わったものなのですが、中国では禅のよき伝統が残りませんでした。韓国でも残りませんでした。いちばんよく残ったのが日本なのです。〉
〈禅宗では座禅という修行をすることが大切であって、仏像を熱心に拝むということは考えにはありません。(中略)そうしますと、仏像はそんなに重要ではないが、建築は逆に重要になってくるわけです。建築はあくまで修行の器としてですが、大切なものになってきます。〉
〈禅宗の世界観では、天地というものが一つの象徴であり、その天地の原理を知ることを重要視しました。そのため、それを身につけるために、さまざまな庭園が造られるようになりました。
いちばん有名なのが龍安寺の石庭です。〉
なるほど、枯山水ってそのために作られたのね。そういうのも昔どこかで読んだかもしれないが、その時は疑問にも何にも思っていなかったので、頭の中を素通りだった。今はいちいち疑問に思うので、ジグソーパズルのピースが埋まるような感覚です。 佐藤義英 画・文「雲水日記」。禅文化研究所発行。佐藤さんは大正10年生まれで、京都東福寺で修行した後、三重県上野市の法泉寺に住職し、病を得て昭和42年、47歳で世を去った、と略歴にある。
この本は「オトナの一休さん」の藤原ディレクターにいただいた。白隠や一休の研究で知られる芳澤勝弘先生が「オトナの一休さん」の絵を見て「この人は、雲水日記を見てるはずだ」とおっしゃったそうで、それで探して私にくれたのだった。 自分の修行体験をもとに描かれた雲水の日常。これはほんの一部である。禅の修行をしながら、どこで絵の修行をしたのだろう。うまい!もちろん私はこの本は見たことがなかったが、花輪和一さんの「刑務所の中」ではないが、体験していないと描けない絵だ。
ところで、岩波文庫、中村元訳「ブッダのことば」を拾い読みしていたら、こんな一節があった。
〈笑い、だじゃれ、悲泣、嫌悪、いつわり、詐欺、貪欲、高慢、激昂、粗暴なことば、汚濁、耽溺をすてて、驕りを除去し、しっかりとした態度で行え。〉
なんとブッダはだじゃれを戒めておられた!しつこいだじゃれを言うおじさんには、このブッダのことばを教えてあげよう。
ちなみにこの「ブッダのことば」は数多い仏教書の中で最も古い聖典と言われる「スッタニパータ」を訳したものだ。
だじゃれの好きな業の深いブックデザイナー、日下潤一さんに「ブログでトランプのことを書きたいから、トランプの絵を描いて」と頼まれたので描いた絵。「日曜までに欲しい」と頼まれた。こういうのは鮮度が命。あんまり似てなくてもいいや、サッと描いてサッと出そう。
ところが、日下さん、忙しいとか言ってブログを更新しない。なのでこっちで絵だけお先に。
「頂相(ちんそう)」とは禅僧の肖像画のことだ、というのを知ったのは実は最近。そう「オトナの一休さん」の絵を頼まれてから。一休宗純の頂相は22点も現存し、これほど多く描かれた禅僧は珍しいようだ。
左上の木彫は、一休の晩年に作られたもので、頭とあごに空いた穴には、一休の毛髪が実際に植え付けられていたみたい。ほかの3点も、飄逸で皮肉な一休の人柄が出ていて、これらの表情をアニメのキャラの参考にした。でも、この3点は角度が全く同じなので、どれかを元に写したのかもしれない。
一休の頂相の中には「え?これが一休さん?」と思うような顔もあるが、そんな顔をしていたとは信じたくない。坂口尚さんの『あっかんべェ一休』(一休宗純の生涯と時代を重層的に描いた優れた漫画)の一休さんの顔は主人公補正されて、かなりカッコイイ。そしてライバルの兄弟子、養叟宗頥(ようそう・そうい)の人相がめっちゃ悪い。物語を作っていく上で一休の対抗軸として欠かせない人物が養叟なわけだが、今に至る「大徳寺」の発展は養叟なくしてはありえない、というお方でもあるらしい。これが養叟宗頥の頂相だ。そしてアニメのキャラにするとこうなった。
「オトナの一休さん」でも養叟は毎度やり込められているのだが、制作スタッフの間では時々「養叟萌え」の声を聞く。もちろん、ふじきみつ彦さんの脚本と、養叟の声を担当されている尾美としのりさんの演技が加わってのことだが。
視聴者の皆様にも是非「養叟萌え」していただきたく日々制作に励んでおります。
そして「一休さん」と言えば蜷川新右衛門さん。本当は一休さんより年下だった。蜷川新右衛門の肖像画はないので、アゴが割れていたかどうかは定かではない。でも青っぽい着物とくっきりとした眉は往年のアニメの蜷川新右衛門さんぽくしておきました。
この3人は一休の弟子たち。頭が青剃りでカワイイ。
こちらは養叟の弟子たち。頭がツルツルで、あんまりカワイクない。私の勝手な味付けです。
地獄太夫。地獄太夫は一休の彼女の設定。声を担当している大堀恵さんにちょっと似てますかね?
私も頂相を描いてみました(僧侶でもない私が描いたものはただの似顔絵かな?)。臨済宗の開祖、臨済義玄がトイレットペーパーを持っている肖像。一休さんのセリフにこうある。「我々臨済宗の祖、臨済はこう言った、人がありがたがる経などトイレットペーパーと同じだと。そして臨済は、自らの経で何のためらいもなくケツを拭いた」
この絵は、曾我蛇足が描いたと伝えられている頂相を元にしている。ちなみに曾我蛇足は室町時代の絵師で(江戸時代には曾我蕭白が「ワシは曾我蛇足十世だ!」と勝手に言い出した)一休さんのお弟子でもあり、一休は曾我蛇足の絵の弟子だったと言われている。
大燈国師の肖像。一休さんのセリフに「大燈国師は権力や高貴な暮らしから離れ、五条大橋の下の河原で暮らす貧しい者たちに交じり、人間地獄の暮らしをしていたのだ…。しかも、二十年」とある。この絵は白隠が描いた大燈国師の絵の写しです。
そんなわけで、毎週水曜夜10時45分から絶賛放映中!
(11月13日午前1時40分から、四、五、六則の3話を連続で放送するみたいです)
一休さんも600年後に、まさか自分がこんなアニメになっているとは思わないでしょうね。