子曰く「三十にして立つ」と。大げさに言うと自分の思想のようなものが固まるのがこの時期だとすると、当たっていなくもないですね。自分が何者なのかようやく気付き始める頃が三十……。
小説すばるで連載中の「ぼくの神保町物語 イラストレーターの自画像」、7回目の今回は西暦2000年〜2002年頃の話。私は29歳〜31歳。タイトルは「三十にして立つ」をもじって「三十にして笑う」です。
初めての仕事を経験したり、売り込みに行っても相手にされなかったり、いろいろ世の中に揉まれるうちに、ちょっとはあった自信もおおかた消えてしまい、ついでに自分もこのまま消えたいような悩みのどん底にいたわけでございます。
もう、そんな惨めな自分を笑うしかないな、という意味の「三十にして笑う」なのでした。でも、この自分を笑うという態度が、今の「絵で人を笑わせたい」という姿勢につながっているので、振り返って見れば、雨降って地固まる的な意味合いがあったわけです。でも渦中にいる当時はそんなことわかりませんからね。「三十にして笑う」というタイトルと共に微笑む女性は、明治大学刑事博物館におわします〈鉄の処女〉の鉄子さんです。人間を処刑する道具です。私のデビュー作は地方紙の新聞小説の挿絵!しかし原稿料は ナ、ナ、ナント1点2000円!たまにこういう街の様子も入れないとね。神保町物語だから。実際の風景と心象風景が重なるように。7回目にしてようやく、文章の書き方が少しわかってきたような……いや、錯覚かな?この連載は私のエッセイデビュー作でもありますので、文章って難しいものだなと実感すること多しです。でも、人並みの原稿料はいただいてます。さすが天下の集英社です。
小説現代で連載中の岡崎大五さん『世界満腹食べ歩き』に、毎月絵をつけています。ずっと前に第7回までアップしてありました。間が空きましたが、今週はその続きです。
第8回は「シルクロードを行く前編」
〈妻に写真を撮ってもらおうと立つと、ウズベク人の観光客たちが集まってきた。「俺たちも入れてくれよ」イスラムの国では写真を嫌がる人が多いのに、ウズベクでは女性でも積極的に写りたがるのだ〉
という場面を絵にしてみました。
第9回はもちろん「シルクロードを行く後編」
後編は扉絵をコマ割りにして、ワイロを渡すハメになる珍道中をコミカルに。
〈四十二時間後、ようやく接岸。これでアゼルバイジャン入国かと思いきや、髭面の太ったイミグレの所長ときたら、入国スタンプを紐に通して首からぶら下げて、賄賂が嫌ならスタンプ押してやんないからね、と一人五十ドル請求してきた〉
第10回は「アムステルダム・プチステイ」
オランダにはコロッケの自動販売機があるんだって。
コロッケはベシャメルソースで作るのが伝統的。正式にはクロケット。日本ではクリームコロッケ。
〈日本には明治初期に入ったが、当時日本は乳製品が乏しく、ソースが作れない。そこでポテトコロッケという、日本独自のコロッケが誕生したとか〉
へぇ〜知らんかった。
オランダの市街地は運河があるので、地図がタイヘン。
地図って、元になる資料があるから、カンタンだと思うかしれませんが、略図にするってことがめ〜っちゃタイヘンなんですよ。だって、どこを省略していいかわかんないし。特に都市の市街地なんて、道や鉄道がごちゃごちゃ走ってて、おまけにオランダは運河もあるんだもん。私は地図が苦手なんで、デザイナー、編集者の力を借りてなんとか……。
しかし、掲載サイズが小さいので、毎回達成感が感じられないよ〜。でもいくらサイズが小さかろうが、地図は間違ってはいけない。すべてのイラスト仕事の中で私が一番苦手なのは地図だ!
はい、お次は第11回「インドかぶれ」
4コマ漫画でインドで出会ったカレーの達人を紹介。いろいろやってます。
この回に登場するのは南インド料理なのですが、岡崎さんに、この店の味が本場のものに近い、と教えてもらったのが練馬の「ケララバワン」というお店。最近、東京では南インド料理のお店も増えてきたが、ここが草分け的存在のようです。美味しかった。
第12回は「おいしい記憶」
今回の地図はカンタンで助かった。
料理を描くのはそんなにタイヘンではないけど、描いてて気づいたのは、料理ってほとんど茶色系が多いですよね。でも食材は色とりどり。調理しちゃうと色が似てくるんですね。鮨が色とりどりなのは食材をそのままご飯に乗っけているからだな〜。第13回は「みそ汁だけ注文すればいい」
〈メニュー表を見て悩んでいると、年配のおやじさんが、いきなり新聞の上から顔を出し、日本語で話した。「みそ汁だけ注文すればいい」〉
韓国に旅行に行った人はわかると思いますけど、おかずがいっぱい付いてくるんですよね。
今回の掲載分の中で、私が行ったことがあるのは韓国だけ。
「講釈師、見てきたような嘘をつき」じゃないけど、毎回、岡崎さんから借りた資料(写真とスケッチ。岡崎さんの奥様は画家なのだ。奥様が同行した旅は記録のスケッチがある。これを見るのが楽しみ)と画像検索で、なんとかその国らしさと文章の場面を演出しております。
毎回地図を描き、資料を眺めていると、けっこう思い入れが生まれてくるので、いつか行ってみたいと思うようになります。でも、私はとにかく尻が重いので、そんな旅行はいつになるのでしょうか。
※ブログを見直していたら「世界満腹食べ歩き」、前回は第8回「シルクロードを行く前編」までアップしていたようだ。ダブってしまった。なんかそんなような気もしていたが。でもこのままでいいや。
最近ブログが手抜き気味ですが、今週も手抜きです。
ウラン堂の仲間たち20名の作家による“しあわせのスカーフ”展(期間/2016年4月30日〜6月19日……つまり、もう終わっている)に参加した時のスカーフとバンダナです。ウラン堂は兵庫県西宮市にあるギャラリーで、以前「画家の肖像」の巡回展をさせてもらいました。マン・レイのスカーフとゴッホのバンダナ。絵のチョイスもデザインもウラン堂さんにおまかせしました。続きまして、双葉文庫の早見俊さんの時代小説『千代之介御免蒙る 江戸の華』のカバー担当しました。デザインは長田年伸さん。こちらは販売促進用のポップ。デザインはビーグラフィックスさん。お次は「ダンチュー」で描いた東海道五十三次ならぬ東海道五十三杯の旅。はい、以上でございます。
【この一週間】
ふと、手抜きでは悪いな、と今思いついたが、このブログは毎週更新しているので、その週の出来事を毎回記しておけば、後で見返したときに、あぁ、あの時のことか、と思い出すよすがになるかもしれない。ブログを始めて8年近くになるが、かわりに日記を全然つけなくなった。
◯今週はポケモンGOでしょ。もちろんやってませんよ。私は永遠の少数派でありたい。主義とか関係なく少数派でいたい。ポケモンGOに限らず、他人に用意されたもので楽しむ、っていうのがなぁ。
◯芸術新潮の「ちくちく美術部」の取材で「しりあがり寿の現代美術 回・転・展」を観に行った。あまりちくちくポイントがなく(つまりそれは面白いってこと)来週また別件を取材に行く予定。練馬区立美術館と同じ敷地にある、公民館みたいな施設の2階の「月の風」というレストランが良かった。公民館みたい、と侮ることなかれ。
◯大橋巨泉さんが亡くなったとの報道。数年前、巨泉さんの本に似顔絵を描いたことがあった。巨泉さんから弟さん、弟さんから編集者、編集者から私へという経由で感想をもらったことがある。「こんなジジィに描かなくったっていいじゃない」とのこと。若い頃のイメージに近づけた。間接的であれ、巨泉さんが私の絵を見て感想をおっしゃったということは一庶民としては記念すべき出来事だ。
◯我らが灘本唯人さんがお亡くなりになった。90歳。数回カラオケをご一緒させてもらったことがあるが、私と灘本さんの歌いたい曲がかぶるようで、北原ミレイ「石狩挽歌」他、私のリクエストはよく灘本さんに歌われてしまった。「先生、それは私が入れた曲でして……」と言うと「あらぁ、それは失礼」と譲ってくれるのだが、今度は、私が歌っている最中に、歌唱に対するダメだしに励む先生なのであった。
※この近況のようなものは続くかな?続かないかも。
早いもので小説すばるで連載中の「ぼくの神保町物語 イラストレーターの自画像」も、もう6回目。当時の年齢でいうと28〜29歳のあたり。西暦でいうと1999年〜2000年。今回のタイトルは「卒業」ということで、居心地よすぎて、ずっといたかったセツ・モードセミナーからの卒業を書いています。卒業というか、セツ先生が突然亡くなっちゃったんです。自転車でコケて。ぼくに最後にかけてくれた言葉は「お〜い!おとーさーん」でした。なんだそりゃ。しかし、もう17年前の話か……。今回の枕は、駿河台の丘について書いています。歌川広重と宮田重雄の絵から、御茶ノ水を見てみると……。1999年、最後の大原スケッチ旅行。先生は、自転車で移動中に転んじゃったのです。いくら元気でも80過ぎたら自転車に乗るのはあぶないね。
今の小説誌ではほとんど見開きの挿絵がないので、毎回無理やりにでも入れています。御茶ノ水界隈にあった文化学院。ここは長沢節の母校でもあります。今は、文化学院自体がここにない。
作文するにあたって、文化学院の創設者、西村伊作の評伝、黒川創著「きれいな風貌」を読んだのですが、長沢先生が通っていたのは、ちょうど校舎を建て替えている頃かな?というのは大正12(1923)年に関東大震災で一度壊れてしまって、その後、とりあえず簡単な校舎を建てて再開、挿絵に描いた校舎は昭和12(1937)年の完成。長沢節の入学は昭和10(1935)年だから、先生がいた時はずっと工事中だったかもしれない。
今まで一度だってプロ野球の試合を見に行ったことがありません。一度だけチャンス(?)はありました。中学の修学旅行で東京にやってきた時、後楽園球場で、日本ハム対南海だったかの試合を見る予定が組まれていたのですが、雨で試合自体が中止になってしまいました。東京ドームが出来る前の話ですね。当時のパ・リーグは、野球音痴の私から見ても人気がないように見えたし、事実、野球好きの友達の間からも、がっかりしたような様子はほとんど感じられなかったと思います。私の故郷、三重県津市では、野球ファンは大まかに、中日ドラゴンズファンと阪神タイガースファンで二分されていた記憶です。私は野球自体に全く興味がなく、運動神経もゼロでした。それでも人間の付き合い上、野球はしなくてはいけないものだったので、いやいや、やっていました。興味のあるふりをしないと付き合いが保てない気がして、野球帽もかぶっていました。でも、贔屓の球団があるわけではないので、古いアルバムを見ると、中日、阪神、巨人と節操なくかぶっています。このころの付き合いのしんどさを比べると、大人になってからの付き合いなど、屁みたいにたやすいものです。
今日、ブログに載せた絵はポプラ社の「asta」という広報誌で、企画されている「中日ドラゴンズ80周年記念企画」で広小路尚祈さんの読み切り短編小説につけた挿絵です。
ふだんあまり用いない技法で描いています。言うほどのたいした技法ではありませんので、秘技ということにしておきましょう。過去に玉袋筋太郎さんの文庫カバーでこの手を使いました。