UCカード会員情報誌「てんとう虫」とセゾンカード会員情報誌「express」(この二つの雑誌は中身はおんなじ)で泉秀樹さんの「賢人の選択」というコラムに絵をつけています。西郷さんと勝さんは、敵味方に別れていても、同じことを考えていた。つまり「異床同夢」。まん中の人は山岡鉄舟。この絵は有名な「江戸城開城談判」をもとにしています。「明治神宮外苑聖徳記念絵画館」という青山の銀杏並木の先にある国会議事堂みたいな形をした建物にあります。私が行った時はほとんどお客さんがいませんでした。おすすめスポットです。天才暴君織田信長が開いた「楽市楽座」。自由経済は商人たちに喜ばれたのであります。大塩平八郎さんは、正義感が強く、マジメで、行動に移さずにはいられない人でした。「大塩平八郎の乱」というのも平八郎さんの性格を考えると起こるべくして起こったことかもしれません。三つとも、あまりに有名な歴史の出来事で、なんら解説を要しないですね。カードの会員様向けの雑誌なので、私の絵もあまりはしゃがないようにしています。
ところで最近、絵にサインを入れるようにしています。〈いのたかゆきegaku〉〈inotakayuki egaku〉など、そのつど適当に書いてます。絵もそのつどなので、サインもそのつどでいいかなと思って。egakuとは描くこと、小村雪岱に「雪岱ゑがく」河野通勢に「tusei-kono.egaku」というサインがあり、その真似です。さて、もうひとつ。「江戸アートナビ」が更新されました。今回は、不気味なものが大流行!幕末のエンターテイメント「見世物」です。時代の気分は作品に自然とあらわれる。マスコミのない時代にどのようにして世相が反映されていったのか知りたいです。絵にも書きましたが河鍋暁斎と仮名垣魯文は安政の大地震の翌日に鯰絵を発行してます。彫って刷らなきゃ発行できないわけですからね、しかも地震で大混乱している中で。さっきマスコミがなかった時代と書きましたが、自分の想像を超えたものが多々あるみたいです。ま、くわしくは下記のリンクをクリックしてお読みください。江戸絵画の専門家・安村敏信先生と一緒に、楽しく美術を学ぶコラム「江戸アートナビ」。今回は、歌川国芳(うたがわくによし)の《竹沢藤次 独楽の化物》から、幕末のエンターテインメントに注目。
さて、先週に引続き、「鈴狐騒動変化城(すずぎつねそうどうへんげのしろ)」です。
挿絵を50点くらい描きました。ネタバレになるといけないので、ちょっとしか紹介できないのが残念ですが。
挿絵を描くときには、小説の文体や、物語全体の雰囲気を重視します。自分の絵柄よりも重視します。小説にあわせて絵柄を変えるわけです。そこがイラストレーターならではの仕事の仕方だと思います。小説の雰囲気に合わせることによって自分でも未知の絵が描けるので楽しいです。でもうまく合わなくて苦労することもあります。ところが今回の「鈴狐騒動変化城」はまったく合わす必要がないほど、自分の世界とドンピシャでした。「鈴狐騒動変化城」は福音館書店の児童書ですが、本のどこを探しても〈児童書〉〈対象年齢〉の文字は記されていません。それは、大人が読んでもオモシロイに違いないと思った担当さんがそうしたようです。事実、大人が読んでもオモロいです。今回、わたしも印税契約だから、売らんがためにそう言っているのではなく、事実オモロいのです。↑とある超面白い挿絵の〈部分〉↑とある超面白い挿絵の〈部分〉
おもしろいということは新しいということです。「鈴狐騒動変化城」をお読みになれば、この本がいままでにない趣向にあふれていることをおわかりいただけるでしょう。「おいおい児童書でこんなことやって大丈夫なのかい?」という部分があるのですが、それは児童書という枠で作っているからはみ出せる部分であります。中村勘三郎丈の言う「型があるから型破りができる」というものです。また、時代劇だからこその設定の自由さもあります。「新しくなければ時代劇じゃない」とわたしは思っております。↑とある超面白い挿絵の〈部分〉。この家老がなぜ笑っているか?理由を知ったらきっとびっくりすると思いますよ。↑とある超面白い挿絵の〈部分〉。これが悪いお殿様。悪いよ〜。どんなに悪いか読んだらびっくりするよ。
読みはじめたときと、読み終わったときに自分の気持がA地点からB地点に動いている。それが感動というもので、作者は読者の意識が自然に変わっていくように仕向ける。この点において田中哲弥さんは天才的な手腕を見せるので、なによりそれを味わっていただきたいです。
町一番の美人のお鈴ちゃんが、お城のわるい殿様にむりやり嫁がされるのをみんなで力をあわせて奪還する、という設定は、あくまでひとつの型であり、型破りのためにあるとわたしは思いました。この「鈴狐騒動変化城」のユニーク(他に類を見ない、という意味)なところは別のところにあります。読んでのお楽しみなのですが、そのユニークさをしっかりと説得力のあることとして伝えるためには、まずキツネのおツネちゃんが、かわいく描けなければいけない。人の語を解するキツネで、野人に近い素朴さと、天然のかわいさがあり、いわゆる化け物でもある。「かわいー」「なにこの子キツネなん?」このあとキツネはこの二人にいじくりまわされるのだった…。
というわけで、読みたくなりましたかな?ちかごろは便利なもので、ポチッとくりっくすると、数日後にはお家に配達される便利なものもあるらしいですね。「鈴狐騒動変化城」はここからクリックしても手に入るとな!
では、万人にこの芸術が愛されることを願って筆をおこう。さらばじゃ!
さあ、さあ、お立ち会い。10月8日発売の田中哲弥・著、伊野孝行・絵の「鈴狐騒動変化城」の御披露目でござい!「鈴狐騒動変化城(すずぎつねそうどうへんげのしろ)」はお母様方に信頼される福音館書店がおおくりする現代児童文学の奇書!(カバーはクリックするとでかくなるよ)真昼の月が誘う童話の円月殺法!「むはははははは!」奇書をつくることに命をかけるブックデザイナー祖父江慎さん+鯉沼恵一さんによる見事な造本。「好きやなあいう気持は、なんかおもろいことになって楽しいなあ」おツネちゃんのこのひと言は、作者の田中哲弥さんをはじめ、本をつくった我々からのメッセージでもある。出来上がった本を手にとってそのように思いました。見開きの狐たち。このアイデアは「南総里見八犬伝」本のコレクターでもある祖父江慎さんの事務所で、まさに「南総里見八犬伝」の見返しに犬たちがいたのを見つけてパクったのだ!このように挿絵の入れ方もいちいち変えてある。
以下は、去年の暮れに、わたしに依頼があった時の、編集者岡田望さんからのメールを勝手に引用します。田中哲弥さんの世界をよく言い表わしています。
〈とにかく筋立てが絶品、狐も含めた登場人物たちも魅力的でぐいぐい読まされるのですが、なによりもこの作品はスラップスティックとして一級品です。私は、原稿を読みながら何度も声をあげて笑ってしまいました。まるで、時を重ね、数多の噺家が幾度となく繰り返し上演することで熟成されてきた古典落語のような品格があり、それでいて、少しも古くささを感じさせない、桂枝雀のアヴァンギャルドや志ん朝のモダンを併せ持っているように思います。同時に叙情にも富み、さらには技巧を凝らした文体や見事な描写が笑いを際立たせつつ、作品に一種独特の切れ味を与えています。
なんとか、この作品の持つ叙情性や切れ味、洒脱な味わいと拮抗し、また新たな魅力を引き出してもらえるような、笑いを説明するのではなく、作品に寄り添いながらも自立している(本のできあがりとして、草双紙や御伽草子の絵巻物のようなものをイメージしております)たとえば北斎漫画のような、そんな挿画をと思い、伊野様にご連絡差し上げた次第です。〉
メールにせかされるように、さっそく原稿を読んだわたしは、最後のページをとじて、両眼からあふれでる熱いものをぬぐうことも忘れて、こう思った。「これは絶対に、おもしろくせねばならない…」。
というわけで、来週は50点近くも描いた挿絵について触れたい。この本は稀にしかない傑作なので、明日書店に走るか、アマゾンなどでポチッとな、しても絶対に損はない!
鈴狐騒動変化城 をポチッとな!
購読している新聞の日曜版に「松尾貴史のちょっと違和感」というコラムがあり、毎週楽しみにしている。今週は「江戸しぐさ」への違和感が書いてあった。読み進めると
〈精神科医の香山リカさんから、「江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統」(原田実著、星海社新書)という本を読んだかと聞かれて、ずっと釈然としないものを持ち続けていた私は早速本屋で購入した。なるほどそうだったのかという思わず膝を打つような話が凝縮されていて目から鱗、すこぶる面白かった。本書によると、この奇妙な行儀作法の「流儀」が生まれたのは江戸時代ではなく1980年代あたりだとのことらしい。〉
…とある。なんと「江戸しぐさ」は捏造されたものだったのか!近頃は文部科学省や学校まで「江戸しぐさ」を推進している。
じつは、わたしも2、3年前にある雑誌で「江戸しぐさ」の絵を描いたことがある。
「江戸しぐさ」はそのときはじめて知った。今にも通じるというか、通じすぎるマナー内容で、なにか説教臭くて興味をもてなかった。(わたしが江戸時代に興味をもつのは、むしろ現在とはちがう価値観があるからだ。)しかし、とくに疑いをもつこともなく、せっせとイラスト仕事に励んだわけであった。
雑誌が出てから、「江戸しぐさ」の絵をブログにアップすると、仕事の依頼が2件きた。「江戸しぐさ」はわたしに仕事を運んでくるいいネタでもあったわけだ…。
事の真相がわかった今、おおげさに言うと歴史の捏造の手助けをしたようで、申し訳ない。というわけで、今回は自分の描いた絵につっこみを入れることで罪をあがないたい。もちろん参考文献は「江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統」である。
「傘かしげ」雨の日に、お互いの傘をかしげて道を行きかうしぐさ。←江戸末期にようやく傘は庶民にも普及しはじめたが、それでも贅沢品で、ふつうは蓑や笠を雨具としてつかっていた。浪人が内職で傘張りをするのも贅沢品で身入りがよかったからだとか。
「肩引き」「傘かしげ」と同様、気遣いの心を体現したしぐさ。人とすれ違うとき肩をひきながら歩くこと。←見知らぬもの同士、お互い敵意がないこともあらわすしぐさだそうだが、実際、男同士でやってみると体を斜めにし、目配せするのは、かえって威嚇しあっているようにしか見えないという。
「七三歩き」自分の歩く幅を道の三割にしておき、残りの七割は緊急時の時や、他の人のためにあけておくこと。←浮世絵に描かれたどの往来を見ても、人々は勝手気まま、てんでバラバラに歩いている。車社会の常識を江戸時代に適応させたものだろう。「こぶし腰浮かせ」船に乗るとき後から来る人のためにこぶし一つ分腰を浮かせて席を作ること。←江戸時代の渡し船には腰をかける座席のようなものがそもそもない。船の大きさによっては馬も荷物もいっしょに乗っている。そんな中、乗客は底板にしゃがむように乗っているのだから、腰をすこし浮かせてバスの座席をつめるような動作はおこなわれず、いったん腰をあげたほうが合理的。(わたしの絵では気をきかせて、すでに腰をあげてしまっているが…)「時泥棒」相手の都合を考えず、家を訪ねるなどして、相手の貴重な時間を奪うことを戒めている。←これには松尾貴史さんの反論が至極まとも。「電話などの普及以降の話であって、とてもではないが江戸時代の発想とは考えにくい」
たとえマナーとして良いものでも、歴史を捏造したものを根拠にするのはよくない。「江戸しぐさ」で画像検索すると、まず山口晃さんの描かれた素晴らしいポスター画像が出てきて、後の方でわたしの描いたたいそうカンタンな絵も出てくる。ちなみに原田実さんは〈山口画伯は公共広告機構のCMで多数の「江戸しぐさ」イラストを発表したが、そのいずれもが昭和の風俗として描かれているのは興味深い。〉と記している。
「日本薬師堂」でサプリメントを通販で買うと、いっしょに送られてくるオマケ「東海道五十三次」を描いている。江戸時代の老夫婦が日本橋から京都まで旅をするというコンセプト。絵は広重の「東海道五十三次」を模写(といってもかなりテキトー)してその中に老夫婦が入り込んでいるという具合だ。画像はクリックすると大きくなります。その①では「三島宿」まで進んだので、今回は続き。
ちなみに日本橋から三島まではコチラで見れます↓
孝行ゑがく東海道五十三次その①
「沼津宿 黄昏図」
その①ではぼくが、学生時代に東京から実家まで歩いて帰ろうとした話でつないでいたが、三島からさきは東海道本線に乗ってしまったので、書くべきネタがない。仕方がないので今回は「余は如何にして時代劇好きとなりし乎」でも聞いてもらおうか…。「原宿 朝之富士」
いや、時代劇好きだなんて言ってマニアックな人間を想像されると困る。時代劇ならなんでも好きかというとあたりまえのことながら全然そうじゃないし。テレビの時代劇でいちばん好きなものをあげるなら『雲霧仁左衛門』(1995年の山崎努主演のものに限る)。これはフジテレビの『鬼平犯科帳』の枠のドラマで、『雲霧仁左衛門』を見てぼくは時代劇で二度目の開眼をした。子供の頃からなんとなく好きだったマゲものを、「絵にしてみよう!」と思ったきっかけだ。「吉原宿 左富士」
『雲霧仁左衛門』を見たときはカルチャーショックだった。プロデューサーも監督も役者もスタッフも、新しいことをやってる気概で満ちみちている…そんな風に思えたし、実際、同業者からも賞賛をあびたドラマらしい。それなのに最後の2話がオウム事件の特番の影響で放送されないまま、打ち切りのようになってしまった。よけいにぼくのこころはあとを引いた。「蒲原宿 夜の雪」
『雲霧仁左衛門』の後枠は渡辺謙主演の『御家人斬九郎』だったが、これもおもしろかった。(あの頃の渡辺謙はよかったなー。最終話では自ら監督もやっている)
まだぼくが喫茶店で働いている頃の話だが、あるとき30代の女性二人がカウンターに座った。そのうちの一人がおもむろに「あたしさー、時代劇のなかでいちばん好きなのは〈雲霧仁左衛門〉なんだー」ともう一人の女性に話しかけた。なにか夢でもみている気分だったが、このドラマは確実に若い世代の心もつかんでいたのである。そのとき、ぼくはそのお客には話しかけなかった。控えめな性格なので。
そうそう『雲霧仁左衛門』はその後10年くらいたってDVD化したので、ようやく全話見ることがかなった。「由井宿 薩埵峠」
子供の頃は、昼間にやっている再放送をよくみていた。妹や近所の年下の友だちを集めて鑑賞会をしたこともあったが、みんなきっと忘れているだろう。時代劇の最大の敵はマンネリである。子供の頃に見た数々のドラマもマンネリ化したものだったろうが、そのへんは子供なので新鮮に思えてしまう。うちのとなりに祖父と祖母が住んでいて、おじいさんは北の湖と『座頭市』がことのほか大好きだった。いつもムスッとしていておじいさんとはほとんど会話をした記憶がないが、相撲と『座頭市』はよくいっしょに見た記憶がある。今、相撲と勝新太郎が好きなのは、そのころのすり込みだろうか?「興津宿 興津川」
おっと、偶然にも東海道五十三次の絵に相撲取りがあらわれた。それはさておき、さきほどマンネリと書いたが、日本映画の黎明期、目玉の松ちゃん(尾上 松之助)のころから時代劇はい〜っぱい作られてきている。時代劇黄金期の片岡千恵蔵でさえ、すでに「時代劇はマンネリと闘わなくちゃイカン」みたいなことを語っていた。「江尻宿 三保遠望」
時代劇二度目の開眼をしてから、昔の日本映画なども見るようになったが、初期のころのほうがおもしろいものが多い。いや、これは厳選され今に残っているものを見ているからで、当時もつまらないものもいっぱいあっただろう。でもやっぱり、作ってるほうの新鮮さは初期に限るのではないだろうか。伊藤大輔監督、大河内傳次郎主演『御誂次郎吉格子』は無声映画だけど(だから)めっちゃおもしろい。この映画は、友だちから絵コンテに描き戻す作業をたのまれて、描いてあげたことがあるのでよく覚えている。「府中宿 安倍川」
NHKの「タイムスクープハンター」はテレビをつけてやっているとつい見ちゃう。実際の髷がどんなものなのか興味があるし、新しいことに挑戦していておもしろい、というかすごく笑える。実際、やらせるのがすごい。やはり頭の上にはカマボコみたいな髷はのっかっていない。時代劇は様式美だけど、実際は垢じみて乱れていたんだろうな。しかし、相撲取りが大銀杏をきれいに結い上げると、やはり様式美でかっこいい。引退して髷をおとすと、とたんにかっこ悪くなる。やっぱり様式美ということか。「鞠子宿 名物茶屋」
ネットには思わぬものがあがっていて楽しめるが、やっぱり映画館で見たい。「神保町シアター」は昔の日本映画ばかりやっていて、いつ行っても年寄りでいっぱい。おどろくほど老人だらけ。プログラムピクチャーというのは、中には傑作もあるし三隅研次監督のような天才もいるけど、まーだいたい退屈なものが多い(しかし昔の映画のセットはすごい。目に焼き付けることができたら挿絵を描くときに大いに役立つのだが…)。快楽亭ブラックさんのように日本のB級映画にメチャくわしい人もいるけど、B級映画を見続けるというのはかなりの偉業だと思う。
(追記)…ガ〜ン!!ブログを見返していたらすでに「東海道五十三次その②」という記事があった!沼津から江尻までは重複してしまった!ボケてる〜。
小学館の「oggi」の2色ページに、モチベーションの高い馬、モチベーションの低いパンダの絵を描いた。もちろん馬とパンダの特集ではない。女性読者様にむけての擬人化だ。ところで動物だって行動を促す動機を持っているだろうから、モチベーションもあるにはあるとおもうけど…。たとえば、馬が、なんで自分はサラブレッドに生まれなかったんだろうか、チクショウ!よし、今に見ておれ〜!なんてことは決して思わない。また、血統書つきの犬が雑種にたいして優越感を持つこともない。この点は動物に見習うべきだ。二頭の虎が縄張をめぐって喧嘩をしたとする。負けた方は、復讐をちかって、体を鍛え、技を磨き、知力を高めようとするだろうか?動物の闘いは、天賦の才の差が勝敗を決めるだけであって、修練や工夫がない。この点、人間に生まれてよかったと思う。おわかりだと思うが、ぼくがここに書いていることは「oggi」の記事とはまったく関係のないことで、ただスペースを埋めるために書いていることだ。