「日本薬師堂」でサプリメントなどを通販で買うと、いっしょに送られてくるオマケとして「東海道五十三次」を描いている。江戸時代の老夫婦が日本橋から京都まで旅をするというコンセプト。絵は広重の「東海道五十三次」を模写(といってもかなりテキトー)してその中に老夫婦が入り込んでいるという具合だ。画像はクリックすると大きくなります。
「日本橋」
二十歳のころ、大学の長い夏休みをもてあまして三重県津市の実家まで歩いて帰ろうと計画をくわだてたことがある。とにかく東海道(国道1号線)をずっと歩いていけば着くはずなので、リュックに寝袋をかついで、アパートを出た。そのころは板橋に住んでいたので、日本橋より手前からのスタートである。「品川」「川崎」
「神奈川」
べつに「東海道五十三次」を歩こうとしたわけではないので、板橋からそのまま品川方面にむかった。一日目は横浜の日吉に住んでいる友達のアパートで泊めてもらい、そこから先は野宿である。「保土ヶ谷」「戸塚」
しかし、枕がかわっただけでも寝付きがわるくなるタイプなので、野宿なんかで充分な睡眠がとれるわけはなく、だんだん疲労がたまってくるのであった。だい たい安心して眠れる場所を見つけるだけでもひと苦労である。やっとみつけた公園の片隅でも、ふと気づくとゴキブリがいたりするので気味が悪い。
「藤沢」「平塚」
これは大いなる誤算だったが、ずっと国道1号線沿いに歩くから情緒もへったくれもない。トラックにひかれないようにしなくてはいけない。しかし寄り道をしてしらない街をぶらぶら歩くと「歩いて帰る」という目的がなかなか実行されないのであった。「大磯」「小田原」
どこだったか忘れたが、果てしなく続く1号線のかなたよりひとりの乞食がこちらにむかって歩いてきた。歩行者はこの私と乞食しかいない。だんだん距離が縮まって、ついにすれ違うときに乞食が「ここまっすぐいけば東京だね?」と声をかけてきたので、なんだかこちらも笑顔になって返事をしたものだ。「箱根」
箱根はやはり難所であった。たぶん国道1号線からはずれて歩いたので景色はよかったが。「三島」
三島の公園で野宿して、水飲み場で体を拭いたり、頭を洗ったりしているときに、かねて思っていたことを実行することに決めた。「歩いて帰るってのは 意外につまらん!話し相手もいないし、景色もよくないし、寄り道もしにくいし、眠れないし…」というわけで東海道線三島駅にむかい電車にのって実家に帰っ たのであった。
雑誌「散歩の達人」11月号の表紙を描きました。ふだんは雑誌の中身のほうで地味に仕事をしているので、たまに表紙に使ってもらえると、そりゃ気持のいいもんですな。ちょうどおとつい(10月20日)に、年に一度の「散歩の達人懇親会」というのがあったので、はじめて仕事したにもかかわらず、ずうずうしく参加してきました。多摩川の稲田堤の土手にある「たぬきや」というお店だったのですが、この「たぬきや」、けっこう有名なので行ったことある人も多いとおもいます。店といってもいわゆる「海の家」みたいなほったて小屋様式の建築物です。おばさんが一人できりもりしていました。当日は朝からざんざん降りの大雨で、「たぬきや」の屋根はたえかねて雨漏りもところどころ。川のほうじゃくて、土手の方から床に水が流れ込んできたり(なんでかな?)、外を見れば暗闇のなかで多摩川がスゲー勢いで流れている。もし鉄砲水みたいなのが来たら…と考えると、ちょっと怖かったです。でも編集者、ライター、カメラマン、デザイナーみんなで30人くらいいたでしょうか、なかなか楽しかったです。こういう顔ぶれで作ってるんだといっぺんにわかりましたし。何回も仕事をしていても電話やメールだけで終わっちゃうことも多いですから、たまにはこういうのもおもしろい。
さて、縁あってお手伝いしている11月2日の「イラストレーションセミナー」も近づいてまいりました。たんなるトークショーではないセミナーです。セミナーとは「専門性の高い授業」のことなので、「おもしろくて、ためになる」ことうけあいです。「先生、イラストレーションとはなんですか?」この問いに即答できない方は、いや、できる方もリンク先をクリックしてみよう!そんで申し込んでみよう!第一回イラストレーションセミナー 矢吹申彦×南伸坊 at阿佐美
「日経おとなのOFF」の珈琲特集で、いつものごとくな絵を描きました。珈琲に関するトリビアの泉。珈琲といえばかつて(といってもわりと最近まで)私は18年もの長きにわたって神保町のとある珈琲店でバイトしていたのでした。〈トリビアその1「珈琲という字はかんざしが由来」らしいっす。漢字の珈琲というあて字の由来です。〉
18年、長いといえば長かった。10年をすぎたあたりで新しいバイトの子に「伊野さん何年働いているんですか?」と聞かれるのがイヤになってきた。答えたときの相手のおどろきあきれたような表情に平気でいられる強い心がほしかった。〈トリビアその2「アロマ」「フレーバー」「フレグランス」の意味、使い方がちがうらしいっす。知りたい人は雑誌で見てね。〉
18年がどれくらい長いかというと、店長の娘が幼稚園だったのにやめるときには大学生になっていた。常連のおじさんが、おじいさんになって、そのうち来なくなった(死んだ)。ただの万年バイトなのに、お客さんからは「店長」→「マスター」→「オーナー」と出世魚のように声をかけられる、などなど。〈トリビアその3 ヨーロッパで悪魔の飲み物とされていたが、教皇が珈琲に洗礼を施し、解禁されたらしいっす。〉
18年間言われつづけたこ小言は「伊野くんは仕事は早いけど、雑!」。職人にとって「雑」は命取りだけど、絵にとっては雑なことはかならずしもネガティブな要素じゃない。脱力感出るし。ていねいにきっちり描いても「はい、ごくろうさん(植木等口調で)」となっちゃう場合もあるから。〈トリビアその4 ヨーロッパの貴婦人たちはソーサーに珈琲を移してから啜ってたらしいっすよ。中国や日本から輸入したカップには取手がなく持つには熱いので。〉
働いていたお店には世界の珈琲カップが200個くらいあったが、仕事中に割ってしまったカップを合計すると数十万円はいくとおもう。でも給料から天引きされることもなく今おもえばいい店だった。そのなかに取っ手のないカップもあったけど、熱くてもてないのはたしかだ。そういえば、仕事中にヤカンのお湯が顔にひっかかって顔が真っ赤になったので、お茶の水の病院に行った。たいしたことはなかったけど先生が目だけ残して顔中に包帯をまいてくれたので、しかたなくそのまま神保町まで歩いて帰ったこともあった。〈音楽の父バッハは珈琲普及の立役者らしいっす。毎日数十杯飲んでたんだって。さらにバルザックは一日80杯だって。〉
神保町という街がよかった。古書店街はもちろん、安くておいしい食べ物屋さんがいっぱいあるし、オシャレなひとはあまりいないけど、モッサリした感じの人ならいっぱいいる。居心地がいい。「スイートポーヅ」「キッチン南海」「徳萬殿」「いもや」「共栄堂」「BONDY」「カーマ」…お店にまかないがなかったので足しげく通った。ちなみにカレー屋で一番好きなのは「エチオピア」です。…ただ仕事の絵だけのっけてもおもしろくないだろうとおもって、しなくてもいい話を書きました。あしからず。
小説現代で連載していた梶よう子さんの「立身いたしたく候」はめでたく最終回をむかえた。幕末動乱の時代のちょい手前、花のお江戸で太平楽に暮らす武士、しかし武家の若者の悩みは就職活動。なんといっても昔は自由競争社会でもありませんし、役職も世襲することが多かったわけですからね。そういえば小説とは関係ないですが、勝海舟がアメリカに視察に行ったとき、「ワシントンの子孫は何をやっているのかね?」と米国人に聞いたところ誰も知らなかった、という事実に驚きもし、感銘もうけたらしい。「殿様の息子は殿様」の日本人にとってはそりゃそうだ。でも江戸時代はがっちり身分が固定されていたわけではなく勝海舟のひいじいさんは貧農の盲人であったが、それこそ立身出世して按摩の最高位「検校」になり息子に御家人の株を買い与えた。孫の勝小吉は不良旗本でその痛快で八方破れの行状は自伝「夢酔独言」に記されていて、この本はものすごーくオモシロイ。で、小吉でひと休みしたものの勝家はひ孫の勝海舟でまたまた立身出世した。
…という話は小説には関係ないが、我が主人公は商家の五男坊に産まれて貧乏御家人の養子になった。しかも無役の小普請組。なんとか就職しなければ食ってもいけない、家族も養えない…のであった。最終回の絵とその前の会の絵を載せます。TISのサイトに第1回から最終回までまとめて掲載しました。よかったらこちらも見てください!click!