KKベストセラーズから発売された野村克也さんの新刊『野村の哲学ノート「なんとかなるわよ」』のカバーの絵を描きました。
南海ホークスのプレーイング・マネージャー、ノムさんこと野村克也(35歳)は東京遠征に来る時、表参道にある旅館を定宿にしていた。宿の近くのお気に入りの中華料理屋で、ノムさんがマネージャーと二人でフカヒレそばをすすっている時、「ママ〜、お腹すいた〜」と店に入ってきたのが後のサッチーこと伊藤沙知代(38歳)だった。
これが二人の出会いである。1970年の話。どこの中華料理屋だろう。当時は表参道にも旅館があったんですね。そりゃそうか、何せ48年も前の話だもの。
当時、サッチーはボウリング用品の輸入販売会社の社長。ノムさんはサッチーの真っ黒に日焼けした姿を見て「世の中にはこんなに活発な女性もいるのか。俺にないものをたくさん持っている人だな」と思ったのが第一印象。一方サッチーはノムさんが監督と聞いてもピンときていない様子。「雨が降ったら商売になりませんよ」とひねった第二ヒントをノムさんが伝えると、工事現場の監督ね、と答えたらしい。
そんなふたりの出会いから去ること16年前、高校を卒業したノムさんは南海ホークスにテスト入団が決まっていた。ノムさんは地元の京都府網野町から球団がある大阪まで、野球部の恩師清水先生と一緒に電車に乗って出かけた。その途中で清水先生が「野村、プロ野球という厳しい世界に入るんだし、仕事運を一度見てもらったほうがいい。よく当たる占い師が祇園にいるから、ちょっと行ってみよう」と言い出し、ノムさんは言われるままに京都駅で途中下車し、占い師の元を訪れた。
そこで白ひげの老占い師に「将来、あなたが何かで失敗するとしたら、その原因は女性でしょう」と言われたという。
ノムさんは自分はマイナス思考で、サッチーは「地球は自分を中心に回っている」くらいのプラス思考だ、と本書で語っている。サッチーが原因で監督を二度も辞めることになるのだが、その一度目の時(南海ホークス解任時)の後日譚もなかなかだ。
「大阪なんて大嫌い。東京に行こう!」と言い出したサッチーを乗せてノムさんは東名高速道路を走っていた。日頃から「野村ー野球=ゼロ」と公言していたノムさんは「ああ厄年って本当にあるんだな……」と心の底からしょげまくっていた。運転中にも愚痴ばかりこぼしていたという。その様子を見たサッチーは「ただ野球の仕事を失っただけなのに『何よ、この男?』」と思った。そして車の中で、一声大きな声で言った言葉が「なんとかなるわよ」だったのである。
この夫婦はすごい。マイナス思考とプラス思考だからうまくいくというのを通り越しているように思える。夫婦に限らず人間関係において「ありがとう」「ごめんね」という言葉をかけるのは必須だとされているが、長い夫婦生活の中でノムさんはサッチーから「ありがとう」「ごめんね」は一回きりしか言われていないのである。それはどんな時に言われたのか?詳しくは本を買って読んでもらうことにしましょう。
このブログでは前にも書いたと思うけど、僕は子どもの頃から球技が苦手で嫌いだった。当然野球もソフトボールも嫌い。でも友達と遊ぶ以上はやらざるをえず、仕方なくやっていた。いわば社交のためだ。子どもにも当然社会がありつき合いがある。ヘタクソだからつねにチームの厄介者になっているという思いがあった。他人の顔色を伺わなければいけない。野球が好きなふりもしなければいけない。あの時は「オレ野球嫌いだから…」なんて言い出せなかった。
しかし、野球選手や監督は、話やエピソードの面白さで、ずっと興味のある対象だった。ぼくは野村監督もサッチーも好きだ。サッチーが突然亡くなった時の野村監督の顔が忘れられない。
お二人を絵にかけたことを光栄に思います。
デザインは日下潤一先生です(担当編集者の方がメールで日下先生と書いていたのでマネしてみました)。ありがとうございました。
小説が世に出る形はいろいろありますが、たとえばまず、小説誌で連載されるとします。
イラストレーターはその時に挿絵を頼まれます。
次に小説誌での連載が終わり単行本として出版されることが決まった時、今度はカバーの絵をまかされる……かといえば必ずしもそうではありません。本屋に行って、「あれ?これって挿絵描いてたあの小説だよな」と、違うイラストレーターの手になるカバー絵を見つめながら、「やっぱり俺の絵じゃ売れないんだろうか」と肩を落としたことも何度かありますね。
でも、逆パターンもあるのでお互い様です。
同じようなことは単行本から文庫化される時にも起こります。
単行本のカバーと文庫本のカバーでは、違うイラストレーターが描いている場合も珍しくありません。「装いも新たに」というやつです。
余談ですが、小説が映画化されると、急遽、期間限定の新しい帯が巻かれます。最近はその帯の幅がはほぼ本のサイズで、いや正確に言うと本のサイズより数ミリ短く、本来のカバーが帯の上からちょっとだけ見えている、みたいなのもあります。さすがにこのやり方を最初に見た時は、「えげつな〜」と思いましたが、とにかく本が売れない、本が売れない、本が売れない、本が売れない……と呪文のように聞かせれている昨今にあっては、そのいじらしさに笑ってしまいました。
私は自分の職業を卑下する気持ちはコレッポッチもありませんが、所詮は服のように着せ替えられるものなのだ、とも思っております。
そう考えると、小説誌→単行本→文庫本とずっと頼まれるのは稀なことに思えてきました。
前置きが長くなりましたが、今週は幾多の障害を乗り越えめでたく文庫まで頼まれ続けた、今月発売の梶ようこさん『立身いたしたく候』のカバー絵についてです。
当ブログでも連載時や単行本発売のタイミングで宣伝していましたが、もう一度イチから載せちゃっていいですか?
まずは「小説現代」で連載したいた2013年当時の挿絵でござ候。
して、これは2014年に単行本化された時のカバーに候。
さあさあ、パソコンの前のお坊ちゃん、スマホを握るお嬢ちゃん、ホレホレ見なはれこの通り、2018年2月にめでたく文庫化されたカバーはこうなって候〜。江戸時代の就職活動の話ですが、文庫のカバーは現代の就職活動風景と混ぜたものにしたいとの申し出があり、他に城の出世階段を駆け上がる案と履歴書案もござ候。
さてもう一つ。
これは単行本から文庫本にする際、絵をちょっとだけ変えて使われたものです。群ようこさんの『うちのご近所さん』。今月発売です。メインのおばさんの服の色が違うのと、表4にいた人たちが表にまわってきました。この小説はもともと連載されていたものだったか、書き下ろしだったか忘れましたが、もし連載されてたものだったら、その時挿絵を描かれていた人がいらっしゃるかもしれません。すんませんね。ま、これもお互い様だということで。
NHK Eテレ 『趣味どきっ!福を呼ぶ!ニッポン神社めぐり』で神話の絵を描いてます。2月26日まで毎週月曜日(午後9:30 )にやってます。私は仏教のことも日本の神様のこともよくわからないままに生きてきた。日常生活に支障はない。まー、私のような日本人は実はいっぱいいると思う。別に知らなくていいとさえ思っていた。でも、最近は日本の仏教や神道はすごく曖昧なものらしいっていうところに惹きつけられる。自分たちがどこから来たのか知りたくなる年頃でもある。もともとがいい加減だったなんて聞くと、ホッとするなー。
さて、そう思っているからか、時々、神様や仏様お坊様を描く仕事が舞い込んでくる。絵に描くとなると、具体的な形にしないといけない。
服装などもある程度は調べる。もっとも、時代考証は雰囲気程度にしかやっていないし、かなりテキトー。なぜか枚数の多い仕事を頼まれることが多いので、描きやすいように簡略化して、装飾品もごく少なめにしてしまう。だからたとえ NHKで放送されたとはいえ、私の絵を参考資料にしない方がいいですよ。
この間も雑誌で地蔵菩薩に螺髪(らほつ、大仏様などにあるパンチパーマ状の巻き髪)を描いてしまい修正が入った。菩薩は人間が仏になろうと修行を積んでいるとこなので、まだクリクリなのであった。これなどは初歩的なミスだと思う。仏教は調べればだいたい答えは出てくるのではないだろうか(あまり詳しく調べたことないけども。「オトナの一休さん」で描いていた袈裟なんてめちゃくちゃいい加減だった)。
ところが調べたってわからないのが、日本の神話の神々の姿。例えばどんな髪型をしていたかは、誰にもわからない。わかるわけがない。よく日本の神様の髪型は、頭の両サイドで髪を結う「みづら」という形で描かれる場合も多いが、同じ神様でも描かれる絵や時代によって様々である。
「みづら」は古墳時代の人の髪型である。したがって、神話に出てくる神様も古墳時代っぽい雰囲気の衣装が多いのだが、このイメージで描かれるようになったのも明治30年頃からだそうだ。それまでは髪を垂らしている姿の方が多い。
「みづら」は埴輪の頭の造形を基にして推測された髪型だ。下の画像は1921年の本の復元図だ。…ってこの画像は、及川智早さんの『日本神話はいかに描かれてきたか』及川智早著(新潮選書)から抜き出したものです(この本も今回の仕事用に買って、結局ちゃんと読む前に仕事を終えてしまった。何のために買ったのだろう)。
ネットを検索してたら、土浦市のホームページに1983年に古墳から発掘された「みづら」の写真が載っていた。髪の毛がそのまま発掘されたようだ。おお、やっぱりこんな髪型してたんだ。埴輪から推測した人スゴいね。
ところで、歌舞伎や文楽で、源平合戦の頃のお話なのに、登場人物は堂々と江戸時代の風俗でやってたりする。また、西洋の宗教画では、紀元後間もない中東の宗教家であるイエス様の絵が、思いっきり中世のイタリアの風俗で描かれてたりする。親しみやすくするためだったかもしれない。観客や信者に考証に疑問を抱く知識はなかったかもしれない。だいたい昔は時代考証の資料なんてものは作り手も手にすることは困難だっただろう。
幕末から明治初期にかけて活躍した絵師、菊池容斎は『考証前賢故実』全11巻というのを出して、それは当時の画家が歴史物の絵を描くときに参考にするバイブルであったそうな。この頃になると考証の研究はある程度進んできたとみえる。
去年ある美術館で尾形月耕の描いた浦島太郎の絵を見て、思わずツッコんでしまった。この絵だ。
う~ん、亀が海亀ではなく、沼亀である。イシガメだろうか。
今調べて知ったのだが、尾形月耕は菊池容斎に私淑していたらしいじゃないか。菊池容斎のお手本にこういう亀が描かれていたのだろうか。亀好きとしてはちょっと気になるところである。
ではまた!
【追記】
伊野孝行×南伸坊 WEB対談『イラストレーションについて話そう』更新されております〜。
第6回前編
第6回後編
よろしく!
今週は日本農業新聞で連載している島田洋七さんの自伝的エッセイ「笑ってなんぼじゃ!」の挿絵から。高校野球の強豪校、広島の広陵高校に入学が決まり、佐賀のがばいばあちゃんの元を離れ、念願のお母さんとの二人暮らしが始まりました。
短い抜書きではなんのこっちゃ話がわからないと思いますけど(挿絵も気に入ってないのは外してるし)、そういうものと思ってご覧ください。
春休みが始まったばっかりで、入学式まで日にちもたっぷりあった。
「それが、ええ。お金渡すけん、行って、ばあちゃんの様子見ておいで」
「いや、そんなにお金はいらんよ。俺、自転車で行くばい」
「え! 自転車でか?」
頑張ってペダルを漕いだら、あっという間に岩国に着いた。
広島を出ると横川、己斐、五日市、廿日市、宮島口、大野浦、玖波、大竹、そして山口県の岩国。
走りながら、流れる景色にちょっと胸が熱くなった。
それは汽車の中からいつも見ていた景色と重なっていたからや。
川を見つけると、水を飲んで、足を洗って、自転車を洗って休憩した。
そうこうしているうちに山道が終わり、日が暮れてきた。
さて、どこで寝ようか。
よくばあちゃんは「お寺は困ったことがあったときに相談しにいくとこや」と言うてたんを思い出した。
お寺に泊めてもらおう!
俺の生い立ちのこと。佐賀に預けられてからの話、貧乏だった話……。
住職さん、奥さん、おじいさん、おばあさん、そして3人の子どもたち。
みんな俺の話に泣いたり笑ったり。
本堂はさながら俺のワンマンショーのステージと化した。
この話をじっと聞いていた住職さんは
「いやいや、恐れ入りました。えらい。たいしたおばあちゃんじゃ」
とえらい感心された。
川のほとりでおにぎりを頬張りながら、キラキラと日の光で光る川面を見ていたら、ばあちゃんのことを思い出した。
ばあちゃんは、よく「人生は川ばい」と言うていたなあ。
待ち合わせ場所のバス停まで迎えにきたおじさんは、「自転車できたとか!」
と目を丸くしてたよ(笑)。
俺は思いっきり大きな声で叫んだ。
「ばあちゃーん!」
ばあちゃんは、こっちを見てびっくりした顔で俺を指差して、「あーーーーーーーーーーーーっ!」
と叫んだ。
「こんな早う起きて何するんや? 魚釣りでも行くんか?」
「いや、俺、一緒に仕事に行く」
ばあちゃんは、俺が一緒に行くのを嫌がるかなと思ったけど、意外とあっさり
「よかよ」
と言った。
別れ際、俺とばあちゃんは握手をした。
「また、来るよ」
その時、初めて気がついたんや。
ズボンを脱いでみたら、赤く腫れ上がって、血が滲んでいた。
お尻のかさぶたも破けて血が出てる。
もう、これはあかん!
そう悟った俺は、ヒッチハイクをすることにした。
トラックは快調に国道を走り、国道沿いのめし屋でラーメンをごちそうになった。
自転車やったら4日かかった道を夕方前には広島に到着し、俺は平和公園の前で降ろしてもろた。
「ありがとう、おかあさん……」
かあちゃんは、そう言うと、もう一回、遠くのばあちゃんに頭を下げながら
「ありがとう、おかあさん」
とささやくような声で言うた。
イラストレーションの仕事は、向こうからテーマが与えられる。
原稿を読み、読者が記事や物語を思わず読みたくなるような切り口を探し、一番ふさわしいと思う絵を描く。
イラストレーションの仕事は相手に合わせることだが、テーマを「問い」だとすると、絵は自分にしか描けない「答え」になっていなければいけない。
仕事のテーマというのはまちまちだ。時々編集者の気まぐれかとも思える注文を目の前にし、どうして俺に頼んだのだろうと、途方にくれることもある。
しかし締め切りまでに描かなくては。
まずは、こびりついた「自分印のスタイル」を剥ぎ取ろう。そしてテキストと自分の間から絵が生まれてくるのを待つのだ。
相手から与えられるテーマとは別に、自分が追っかけるテーマというのがある。作り上げたスタイルは、自分のテーマが最も伝わる表現方法だったはずだ。
でもテーマを忘れてスタイルだけが形骸化してやいないか。
テーマをいろんな言い回しに言い換えることも、実はできる。
そうすれば、いろんなスタイルを使いこなせる。自分にテーマがあるからこそ、どんな球が来ても打てるのだ。自分にテーマがないのに、球を打ち返していると、「器用貧乏」と言われる。
ところが、最近、球を打ち返すことに一生懸命になりすぎたかもしれない。
引き出しが増えたと思っていたけど、肩透かしや猫だましだったのかもしれない。
お題はこなしている。球は打ち返している。でも、なんとなく絵が物足りないような……あ、もしかしてこれは器用貧乏に足を突っ込んでいるのかもしれない。最も自分が嫌だと思っていたはずなのに。
いつも同じスタイルで描くことは嫌だ、俺が描く絵はなんでも俺の絵なんだから、自由に描きたい!と思っているけど、いつの間にか、人に好かれていい子になっているだけのような気もしてきた。
イラスト仕事の特性とうまく利害が一致してしましい、気がついたら全然ワガママを言っていなかった、って感じ。
最近そんな気持ちによくなる。
自分にこんな絵が描けたんだ、って思えた時はこのやり方はいいと思う。新しいテーマが見つかる時だってある。でもうまくいかない時は、なんだ、こんな絵俺じゃなくても描けるじゃねえか、と思ってしまう。絵の中に俺がいない。
来週あたり、熊谷守一展を見ようと思っているので、青春のように悩んでいるのかもしれない。よし、俺は60歳になったら、スタイルを一つに絞るぞ!(たぶん、ムリ)去年暮れから「オール読物」で始まった大島真寿美さんの連載。時代物は楽しんで描ける。「小説現代」の読み切り。すごくいい短編小説。読み終わってウルウルしてしまった。今の時代の子どもの話。時代物とはわけが違う。あぁ、どうしよう。3回くらい描き直した。伊野印はどこにもないので、名前を隠したら誰が描いたかわからないかもしれない。「オール読物」の読み切り。平岡陽明さんの時はいつも声をかけてくださる。そしていつも小説に合わせて絵も変えている。大島真寿美さんの連載と同じ号に乗るので、そことも絵柄を変えたかったが、いろいろやった挙句迷ってしまった。
上の4点はUCカードの会員誌「てんとう虫」で連載している、歌人福島泰樹さんのエッセイにつけている挿絵から。これがまた毎回難問である。おちゃらけやくすぐりは必要がない、というか毎回シリアスな内容なのである。
上は「通販生活」、下は「ウエッジ」に描いた絵。一コマ漫画にできると、すごく気が楽だ。見る側も描く側も伊野印を見て安心するだろう。しかし、安心していいのだろうか。
「母の友」の童話の挿絵。ユーモアと言っても一コマ漫画と童話のそれとは違う。難しい。
ネームを流し込んだもの。この時は雑誌の「POPEYE」ごっこをやってみた。
放送日も教えてもらえなかったし、教えてもらったとしてもBSが映らないので見れないのだが、 NHKのBSでやっていた片岡鶴太郎の「ヤミツキ人生」という番組に描いた絵。金魚仙人と呼ばれる97歳の川原さんの人生紙芝居の絵から。
いろんなタッチで描いてると、飽きることはないけど、見る人の印象に残りづらいだろう。だから俺は有名になれないのである。やはり熊谷守一を見習わなければいけない。安西水丸さんを見習わなければならない。やっぱり60歳になったら、スタイルを絞ろう!(本気でそう思ってはいないけど、もしそうなったらそれはそれでいいのかもしれない)