抽象画には、すげー面白い抽象画とまあまあ面白い抽象画とぜんぜん面白くない抽象画があって、私には一目瞭然なのだが、その差を言葉で言い表すことができるのだろうか?いやできない。
ここに2枚の抽象画と1枚の画板がある。
作為的に作ったものと、自然に出来たものである。
こんなものを載せていったい何を論じようとしているのか?
抽象画を言葉で論じるなど不毛なことだと前置きしておきながら……。
『するどさもうつくしさもないみじめなどうぶつ』Takayuki Ino / 2013
『まばたきに用いる幾度かの闇さえ不安だ』Takayuki Ino / 2013
『金魚鉢のポスターをじっと見つめる黒猫と白猫』Takayuki Ino / 2019
さ、今日は午前中から取材旅行に出かけなければいけないのだ。
滋賀と京都に行くので、ついでに今まで口にしたことのない鮒寿司を食べてこよう。
もう出かける時間だ。
そんなわけで、前振りに対して何も回収しないまま、ブログは終わりだ。
絵と言葉について、考えたい人は考えたらよい。
言葉でコミュニケーションできない人だって素晴らしい絵を描く。
非言語的な質を有する絵画を言葉で考えることの意味はなんなのだろうか。
え?…今週はネタがないのにブログを無理に更新してる状態じゃないかって?
…そうです。
…おわりです。
前にもこのブログで書いたかもしれないけど、猛暑日が来るたびに思い出すので、また書いてしまおう。
今朝は、火曜と金曜の朝にやっているジョギングの日だった。近所で小さな喫茶店をやっているおじさんと走っている。走っている時間は20分ほど。おじさんの店はものすごく狭いので、喫茶店をやっているといえども、おじさんは慢性運動不足。もちろん、座り仕事の僕も運動不足。そんな二人にとって唯一の運動が週に2回のジョギングなのだ。一人だったら絶対に3回で走るのをやめているが、相手が待っていると思うと続けられる。かれこれ走り始めて1年半が経つ。
そして一年を通して同じ時間に外に出ると、季節の移ろいゆく様子がわかるのである。季節ごとに入れ替わる植物の栄枯盛衰物語も、カラスの出勤時間の変化も、そんでカラスに荒らされまくったゴミを(火曜と金曜はちょうど燃えるゴミの日で、生ゴミが散乱しているのをよく見かける)、人知れず近所のおばちゃん達が、向こう三軒両隣の精神で掃除していることも、走り始めるまでは知らなかった。
美しい国ニッポンはこのおばちゃん達(年齢でいうとおばあちゃん達)によって保たれているのだ、間違いなく。おばちゃん達が掃除をやめれば、たちまち道路は、生卵の殻や、キャベツの芯や、濡れた紙くずが放つすえた匂いで満ち、それを目にしてモラルが下がった住民がゴミをポイ捨てして、街はスラム化するだろう……て、この話も前に書いたのだが、この話をするつもりじゃなかったんだ。また書いてしまおうというのは「気温の話」だ。
昨日、東京も梅雨明けして、巻き返しをはかるかのように急に暑くなった。猛暑、猛暑、猛暑。朝のジョギングですでに30度は軽く超えている。去年は危険を感じたので、集合時間を7時半集合から1時間早めた。ジョギングじゃなくても、昼間に歩いて5分ほどのスーパーに買い物に行って帰ってくるだけでも、ダメージがでかい。そんな時に思い出すのが、10年ほど前にバイト先の喫茶店で小耳に挟んだ会話だ。
誰だかわからないが、ウチの店で取材を受けている先生のような人がいた。いつもライターか編集者を前に、動物の話をしていた。だから動物に詳しい先生だと思う。この先生が語っていたことを小耳に挟んだ。
先生は「動物の進化に一番関係しているのは気温なんだ。気温の網が全ての種に覆いかぶさり、網をかいくぐれた種が繁栄し、かいくぐれなかった種が滅ぶということなんだね」みたいなことを言っていて「なるほどなー」と納得したのだ。
確かに気温の変化は全ての生き物に一様に影響を持っている。平均気温が、2、3度上がるだけで、生きられない種はいるんだろうな。逆に気温が変化したことで勢力を増す種もいる。
猛暑日の炎天下を歩いているだけで死にそうになるたんびに、私はこの先生の話を思い出してしまうのである。
猛暑は人間という種に覆いかぶさる真っ赤な網なのだ。
……はい、以上が「思い出す話」で、これで終わりなのだが、随分前に「チコちゃんに叱られる!」を見てたら、この先生が出ていた。
動物学者の今泉忠明さんという方だとわかった。
「猫はなぜ魚が好きか?」という回だったと思う。猫は小さい時に食べていたものを好んで食べるようになるので、世界にはトウモロコシを好んで食べる猫もいれば、パスタを食べる猫もいるらしい。らしいというか実際にパスタを貪り食う猫の映像が流れていた。日本はまわりが海だから人間の手から魚を与えられ、猫は魚好きになるのだ。
そういえば、高校の頃、校庭に住み着いていた猫にバッタをやったら、バリバリ何匹も食べていたので「猫ってバッタも好きなんだ〜!」と驚き、家に帰って自分とこの猫にバッタをあげても、食い物とは認識せずに、ただバッタをいじめていたことがあったが、それもそういう理由なのだろう。
ひょっとして、この話も前に書いたかも知れない。
しかし、遡って調べたりはしないことにしている。
人生も後半戦に入れば、誰しも、同じ話を繰り返すだけになるので、許されることになっている。
仕事じゃないし。
これは6月28日の早朝にツイッターに投稿したものです。
ご覧のとおりバズっています。
そしてツイートから5時間後に、なんとこの置物を持っている方が現れました。
おお〜っ!色は違って、欠けたところもあるが、まさしく同じもの。さっそくこの方に連絡を取り、ゆずってもらうことになりました。
ツイートに何という置物か?読んでいる本は何か?という質問が入っているので、それをお題にして、いろんな人がふざけて大喜利がはじまりました。これも拡散された要因で、結果的に置物が見つかったのだからお礼を申し上げたいです。どうもありがとう!
まじめに推測、回答くださった人も多かったですけどね。
実を言うと、この置物は京都のギャラリーカフェ「隠」というお店にあります。
ガラスに写り込んでいる右の方は芳澤勝弘先生です。禅学・禅宗史研究家で白隠研究の大家であります。
カフェの2階に白隠禅画が並ぶギャラリーがあり、その上の階が先生の研究室にもなっていたはず。カフェの名前が「隠」なのも納得していただけると思います。
カフェ自体は先生の知り合いの方がやっているのだったか、詳しいことは忘れてしまいましたが、お店で先生と仕事の打ち合わせを終えて、外に出た時、壁面のディスプレイに見つけたのがこの置物でした。
「わ〜、先生これめちゃいいじゃないですか!この置物なんなんですか?誰が作ったんですか?」私は一目見てトリコになってしまいました。
「これはな、かいかんいっしょうというやつだよ」
「かいかんいっしょう…?」
漢字で書くと「開巻一笑」。
でも、それがこの置物の題名なのかなんなのかはよく分からずじまいでした。カフェをプロデュースしている人が見つけてきたのか、骨董品屋が先生のところに持ってきたのか…ちょっとの間の立ち話で、根掘り葉掘り聞くのも悪いと思って、写真をとるだけにして後で家に帰って調べることにしました。
「開巻一笑」を調べると中国の明代の笑話集らしい。日本でも訓訳されて読まれていたようです。
「開巻一笑」で検索して出てくるのは笑話集のことだけで、置物の情報は出てきません。
この置物の名前ではないかもしれません。ハゲ三老人が読んでいる本が「開巻一笑」なのか、この状態が「開巻一笑」なのか。置物の本には題がついていないから、状態のことを差して先生は言ったのでしょうか。
見たところ一点ものではないと思いました。先生の口から作者名が出てこなかったことからして、工房かどこかで作られた職人の仕事だとにらみました。
欲しいには欲しいが、本気で探すとなると玄人(骨董屋)の手を煩わすことになると思ったし、その筋に親しい人もいないし、早々にあきらめました。基本、物欲がないのでね。
あれからそろそろ1年が経とうとしていた時に、スマホの中の写真を見返していて、ふと思い出したようにツイートしたというわけなんです。もっとも本気で見つけようと思っていたわけではないし、単なる暇つぶしのつぶやきにすぎなかったのですが…。
しかし見つかるとはね〜!
7月7日、ついに我が家におじいさん達がやってきました。
置物は私に譲ってくださった方(くじらのとけいさん)の義理のひいおじいさんの持ち物だったらしい。
ひいおじいさんは今はない阪和鉄道という会社で設計士として働いていらしたようです。古い家を取り壊す時にこの置物の存在を思い出したものの、事情を知る者はもうおらず、新しい家にはこの置物を飾る場所もなく、埃をかぶったままだったということです。
さて、丁寧に梱包された箱の中から取り出した置物は大方の埃は掃除されていましたが、長年積もってこびりついた埃や黒ずみが取れなかったので、歯ブラシに水をつけてこすってみました。一番右のおじいさんからです。するとハゲ頭の地肌が見えてきました。
さらにこすっていると、アレ?色も落ちてない?とヒヤッとしたのも手遅れ、右のおじいさんの着物の襟元が消えてしまいました。
僕はてっきりこの置物は焼き物だと思っていたのですが、どうやら粘土か石膏でできた塑像のようです。
叩いてみると焼き物のような高く乾いた音がしません。それにさっきから水をかけても流れ落ちるだけでなく、いくぶんか染み込んでいるような気がしないでもなかったのです。
部屋中に独特の匂いがしはじめました。たぶんこれは石膏の匂いでははなかったかな。
とりあえず、水で掃除できる黒ずみや汚れを全体的に落としてから、乾かしました。
洗浄後。右のおじいさんの襟元の色がハゲてしまいました。
もともと元どおりに復元するのではなく「隠」で見た置物に印象を近ずけるつもりでしたので、とんでもないことやっちまった!とは思いませんでしたが、びびったことは確かです。焼き物じゃなかっとはねぇ。
ちなみにこれくらいのスケール感です。
ひっくり返してみると、中がくりぬいてない。焼き物は中をくり抜かないと、焼く時に破裂すると聞いたことがあります。
裏には銘もなければ社名もない。左上から少し斜めに割れた跡?が見えますね。
水洗いした後の、この土人形のような素朴な感じも悪くないですね。迷いましたが、でもハゲ頭は光っていて欲しい。
乾いてから、指でおじいさんの頭をこすってみますと、指の油で頭が光り出しました。
なるほど。
全体的に磨き上げて光沢を戻し、欠けたところを粘土で継ぎ足して、油絵の具で色を補なったのが下の写真です。
左のおじいさんの欠けている指は粘土で補修しましたが、右のおじいさんの持っている手あぶり火鉢の取手は復元しませんでした。
でも、なかなか「隠」で見た雰囲気に近づけません。
あちらの肌の色は古びた感じも含めて自然で超絶妙。塗り直した頭部がどうもフィギュアっぽい。これから古色をつけるべきかどうか悩みどころです。
おじいさんは何を読んでいるかって?本は白紙でしたね。
でも、本の表紙の模様は芸がこまかい。
色もだいぶ違うので、何人かの職人さんが塗っていたのでしょう。
私の置物では、左のおじさんの羽織の紐がないのですが、代わりに金具がついています。羽織の紋も「隠」とは違います。
火鉢の柄も違う。私のはラーメン丼の模様。でも芸が細かいのは、火鉢の表面が焼き物のように細かく亀裂が走っているところ。ここだけ焼き物かと思いましたが、そうではなく、ここも石膏?のようです。炭もちゃんと入っています。
毎日、ちょこちょこ手を入れながらこの置物を眺めています。
何が好きかって、ま、この雰囲気が好きなんだけど、ある種自分の理想のような世界です。この仲間に入りたい。
私の髪型はまもなくこのおじいさん達と同じになるのですが、ハゲも悪くないと思わせてくれます。そういう意味でも好きかな。
置物のお礼として、くじらのとけいさんには、つまらぬものを色々お送りしたのですが、一枚、置物がこっちにきた代わりに置物の絵を描いてお送りしました。
のぞいているのは一休さんと蜷川新右衛門さん。ま、いつものお得意のってやつですが、実は芳澤勝弘先生、アニメ「オトナの一休さん」の監修もされていて、去年打ち合わせで行ったのも田辺の酬恩庵一休寺から頼まれた頂相(禅僧の肖像画)を描くための打ち合わせだったのです。
今度先生に会うことがあったら報告しなければ。あ、そうそう、くじらのとけいさんも京都にお住まいだということで、この置物は京都のどこかで作られていたのかもしれません。
以上、「開巻一笑」後日談でした。
おわり。
追記。ブログを読まれた芳澤勝弘先生より連絡をいただきました。「開巻一笑というのは小生の命名です」「10数年前にパリで出会ったあるご婦人からいただいたもの」とのことです。
ついにネコ教に入信してしまいました。
しかも通信教会です。
うちの実家(年老いた両親の二人暮らし)でインコを飼ってたんだけど、去年逃げちゃって、心の隙間を埋めるためにか、今度はネコを飼おうかと話していたらしい。
うん、それいいんじゃない。老人の会話のネタになるだろうし。実家に帰って来た時にネコがいるのも悪くないね。ネコは僕が実家暮らしをしていた時に通算5匹?くらい飼ってたことあるので、ネコのだいたいはわかっているつもり。
で、両親が保護ネコをもらいに行ったら、猫より先に死ぬおそれあり、ということで年齢制限に引っかかって、もらえなかったんだって。でも一度飼うと心に決めたから、あきらめられずに知り合いに頼んでたみたいで、ついに子ネコがもらえそうという連絡があった。
聞けば最近流行りのブサカワ顔のエキゾチックショートヘアという種で、画像検索したら、んー、なんかこれは思ってたネコと違うなー、ふつうのそこらにいるネコがいいんだけどなーと思いました。ちょっとガッカリでしたね。
そしてつい先日、エキゾチックショートヘアとかいう名前の種の子ネコがやって来て、写真が送られてくるようになったのですが、これが……なんなの……もう……なんなの……ヤベェ♡……ヤベェ♡……こいつはなんなんの、こいつは、こいつは……もう……と気づいたらネコ教に入信してました。
もっと写真を送ってくれと本部に言って、届く写真を見ては、なんなの……もう……なんなの……ヤベェ♡……とお経を唱えています。10年間ブログを更新して来て、ついに絵とはなんの関係もないネコブログになってしまいました。まるで人が変わったよう。
そう、それが宗教というものなんだニャ〜。
また先週ブログをサボってしまった。記憶では今年は3、4 回サボった気がする。ちょうど12月16日で大徳寺真珠庵の襖絵公開が終わるので、ご挨拶に京都に行き、さらに足を伸ばして奈良まで行って、興福寺を見学し、かねてから「いつかは行かねばならぬ……」と思っていた春日若宮おん祭を2日に渡って体験してきたので、火曜に東京には戻ってきたが、ヘトヘトすぎてブログを更新する気力は残っていなかった。
興福寺は来年、ある仕事で描くことになっているので、取材のつもりで見学してきた。建物のスケール感もそうだが、興福寺の周りはけっこう高低差がある土地なので、まずはそれを見たかった。もちろん阿修羅像はじめ数々のハイレベルな仏像がズラリと並ぶ国宝館とか、今年の秋に完成した天平の威風堂々、中金堂とかも見た。
やはり一度でも見ておくことは大事だ。例えば、この漫画の一コマは、芸術新潮の運慶特集に描いたもので、猿沢池から高台に建つ興福寺を見上げているところだが、今見ると、建物の並びや向きがめちゃくちゃで恥ずかしい。実際は興福寺はもう少し高いところにある。ま、こういうことがないためにも百聞は一見にしかず。(興福寺は小学生の時に社会見学か修学旅行で行っているような気がするのだけど、全然覚えていない。)
春日若宮おん祭は、2年前のちょうど今頃、これまた芸術新潮にルポ漫画を描いていた。でも、実はルポしないで描いたのだった。本当は芝崎みゆきさんが取材して漫画に描く予定だったのだが、なんと取材最終日に右肩を骨折し、困りに困ったった編集部から、空いててよかったコンビニエンス・イラストレーターの私に電話がかかってきたのであった。
詳しいことは以下リンク先のブログ記事を読んでください。(芝崎さんになり変わって私が漫画を描く、つまりこの漫画は、芝崎菩薩を本地とする伊野権現という本地垂迹ルポ漫画なのです!……はい、なんのこっちゃわからん人はスルーしてくださいネ)
もともと春日大社の春日若宮おん祭は、隣接する興福寺がはじめたお祭りであった。大和国を実質支配していた興福寺、そして神仏習合を経ての春日大社との関わり合い……ま、よく知らないまま、くわしいことを語るとボロが出るので、まだ勉強中ということにしてひとまず置いておこう。
(写真は華やかな行列の参加者たちが奈良県庁の前に集合しているところをパチリ)
春日若宮おん祭の中心は、春日若宮の神様が午前零時に若宮神社からお旅所という場所に出て来られ、そこから24時間にわたって、芸能などを神様に楽しんでもらい、その日の午前零時にまたお住まいの若宮神社にお戻りになるまでの時間である。
その前後を含めると4日くらいお祭りの期間がある。
すべてのお祭りも本来はそうなのかもしれないが、春日若宮おん祭を見るということは、つまりは神様のために捧げるお祭りを、我々が横から見させてもらっているということだ。
(マンガは、おん祭のもっとも重要な「遷幸の儀」の様子。若宮様を本殿よりお旅所へと深夜お遷しする行事で、古来より神秘とされている。闇の中を炎の道が作られ、その後をヲーヲーヲーという声を出す集団が続く。いっさいの明かりは消さなければならず、撮影も許されてはいない。なので実際に行った人にしかわからない。今年の遷幸の儀はザーザーぶりの雨だった!)
ここがお旅所である。写真が前後したが、遷幸の儀が深夜にあり、翌日華やかな行列や流鏑馬などがあり、そのあとお旅所で芸能が奉納される。写真は神楽の様子。芸能奉納はぶっ続けで8時間くらいあり、それが終わるとまた深夜に若宮様を本殿にお送りする。見学者は寒く、ひもじい思いもしなければならない。しかしせっかく神様とご一緒できるのであるから……。
芸能がくりひろげられる一段高くなった土俵ほどの大きさの「芝舞台」は「芝居」の語源にもなっている。つまり芝居はメイドイン春日大社なのだ。
春日若宮おん祭は濃厚にカミの存在が感じられ、カミは清いと同時に怖いという気分にさせてくれる。
祭りは人間が神様に捧げるために行うのだが、その結果として我々人間もまた、豊かな時間と楽しみを得られるのである。
人間が人間を喜ばすためにやってるのが、神様を信じなくなった近代以降の芸能や芸術だけど、人間と人間の間に神様の存在が入る三角関係が私にはとても新鮮だった。900年近くほぼ途切れることなく、昔のままの形で続いてきたお祭りだから、私のような一見さんにも、神様と人間で作る三角関係が感じられたのだと思う。
絵一つとっても、中世以前の作物はやっぱり神様仏様抜きにしては語れない部分は大きい。だが今、我々が神仏を昔の人と同様に語ることは不可能と言ってもいいだろう。でも、それを追体験できるのが春日若宮おん祭であった。
まことに稀有なお祭りです。ところが奈良県以外の人にはいまいち知られていないという……。
で、芸術新潮で見ないで描いたルポ漫画ですが、実際にこの目で見た後で、我ながらすごくよく描けてる!と思った。
これはひとえに芝崎みゆきさんの感受性と構成力の賜物です。あと、編集部の丁寧な説明とカメラマンの取った資料写真のおかげもありますね。こんな順番でおん祭を見る人も私だけでしょう。
この話を枕にふって、違うことを書く予定だったけど、結構量が増えてしまったので、今週はこれでおしまい。そして今年はこれでおしまい。
みなさま良いお年をお迎えください。
もし、僕の絵を見て、ちょっとでも「なんかおかしいんだけど、マジメ」とか「変化球のように見えて直球」とか「ジャンルがよく分からない」とか「つき放したようで、あったかい」なんていう感想を持ってくれたなら、それはみんなエンケン(遠藤賢司)さんの影響なのである。
もちろん、僕自身にもそういうところがあるから、こうなっているのだけど、エンケンさんをお手本にやってきた部分は大きい。僕は画家やイラストレーターよりも、遠藤賢司に一番影響を受けている……と、10月25日のお亡くなりになった夜に、改めて思ったのだ。
高校生の時は、お小遣いをほとんどレコードに使っていた。何かを探すように、いろんな音楽を聴いてたけど、高校2年のある日、毎週聞いていたラジオ、ケラの「FMナイトストリート」にエンケンさんがゲストで出た。遠藤賢司をはじめて知った夜。始動しだしたエンケンバンドの演奏や、代表曲をかけた。エンケンの音楽は、自分でも知らない心の奥ヒダに触れてきた。「あぁ、これだ!」と思った。
他人の作った音楽を聴いて、自分のことがスラスラわかった気になったのだ。
翌日「満足できるかな」「東京ワッショイ」「宇宙防衛軍」のCDを買った。でも、CDプレーヤーはまだ持っていなかった。CDプレーヤーを買うまでの1週間くらいはジャケットや歌詞カードを見て、念力で聴いた。実際に聴いたみたら、全曲期待を裏切らなかった。「そんなにいろいろ、他の人の音楽を聴かなくったっていいや」と思ってしまった。
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どの曲もタイトルが素晴らしい。「輪島の瞳」「史上最長寿のロックンローラー」「俺は寂しくなんかない」「通好みロック」「不滅の男」「外は雨だよ」「壱円玉よ永遠なれ」「嘘の数だけ命を燃やせ」「いくつになっても甘かねェ!」「ド・素人はスッコンデロォ!」……特に「フォロパジャクエンNo.1」という曲は題名だけではぜんぜん意味がわからないけど、フォーク、ロック、パンク、ジャズ、クラッシック、演歌などなどのジャンルにとらわれず、「良い音楽は良い、自分の歌を創って歌って堂々と自分を主張しようよ!」という内容で、音楽ジャンルの頭文字を繋げてタイトルにしている。ワッハッハ!やっぱ最高!タイトルがいいと中身もいい。これはこの世の真実だ。
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上京してからは、行けるライブは全部通った。ある日、友達を誘って横浜ビブレのライブハウスに行った。
ライブの終盤あたり、エンケンバンドフルボリュームの大轟音が鳴り響く中、彼はポンポンと僕の肩をたたいた。
振り返ると、彼は自分の眼を指差している。感動して泣いてるよっ!ってことだった。もちろん、俺も泣いているぜ!御涙頂戴なんて全くナシなのに、毎回胸がいっぱいになる。その時も、心のヒダは感動を包み込み、私という若者を育んでくれたと思う。
ライブが終わった後、友達が「サインをもらいに行こう」と言った。自分一人じゃそんな勇気はないので、着いて行った。エンケンさんには、友達の方が大ファンで、僕はにわかファンに見えたようで「ありがとう、はじめてきてくれたの?」って言われて、必死に訂正した。
昨年、エンケンの69歳のお誕生日(1月13日)に発売された「遠藤賢司実況録音大全[第四巻]1992~1994」という、CD9枚とDVD1枚のボックスがある。DVDは1994年の代々木チョコレートシティのライブ映像だった。あれ?なんだかこの空気感覚えてるゾ、と思ったら、当時の自分が写ってた。23歳、まだ子どもの顔だぁ〜。
今年の初めまで「小説すばる」で連載していた自伝的エッセイ、19年間のバイト君物語「ぼくの神保町物語」にも書いたけど、こんなこともあった。絵には時々ふり落とされそうにもなるが、しがみついていなきゃ。その踏んばり時にもエンケンの歌あり。(画像はクリックするとデカくなる。)
今、僕のまわりには、直接エンケンさんと仕事をした人たちもいる。羨ましい。でも、仮にもし自分が……となると、きっと好きすぎて無理だな。スターは離れたところから見ていたい。エンケンさんと仲のいい編集者の人に演奏後に会う?って誘われたこともあるけど、やっぱり、遠慮しちゃった。
ところが……。
2010年にエンケンさんが近所に引っ越してきた。どこに住んでるかまではもちろん知らないけど、エンケンさんのブログを読んでいると、我が家から徒歩15分圏内であることは確実だ。でも、遭遇することはなかった。
僕の最寄駅は下高井戸で、駅のすぐ近くに「肉の堀田」というお肉屋さんがある。ここの揚げ物はおいしい。一昨年だったかな?ある日、コロッケを買おうと行ったら、僕の前に背の高い男の人が一人、コロッケを買っていた。遠藤賢司その人だった。あっ!あっ!目の前にいる!
「エンケンさん、ファンです!握手してください!」
……と何度も心の中で言ってたのに、お会計が終わったエンケンさんを、結局、僕は無言で見送ってしまった。もう〜、このいくじなし……。
ま、でもよかった。やっぱり近所に住んでんだぁ〜。ちなみに、エンケンさんには「おいしいコロッケ食べたいな」という曲もある。その日はお友達でも来るのか、15個くらい買っていた。
(=^x^=) (=^x^=) (=^x^=)
エンケンさんは「純音楽居士」になって宇宙旅行に出かけた。そんなわけで、エンケンさんがいなくなって寂しいにゃぁ〜。
1999年に長沢節先生がスケッチ旅行先の大原漁港において、自転車でつっころんで、亡くなった時のことをフト思い出してしまう。自分が自分になるまでの、光と栄養をくれた太陽のような人がいなくなるって、とっても悲しい。でも、この世からいなくなっても、自分の大きな灯台であることにはぜーんぜん変わりはない。
「エンケンさん、どうもありがとうございました!」
お礼を一言を言いたかったのです。