先日、カバーの絵のお礼に一献、ということで俳人の高山れおなさんに浅草の牛鍋屋でご馳走になりました。
カバーを描いた本は『切字と切れ』。平安時代の俳句前史から現在に至るまでの切字と切字説をとりあげ、「切れ」とは何かを問いただす論考であります……と、そんな説明であってるでしょうか。帯にもそんなことが書いてあるし。
いや、本が届いてからちゃんと読みましたよ。私は俳句に関しては完全な素人なんですけど、この読み応えある本を一日で読み切ったね。
とてもおもしろかった。
ブックデザインは日下潤一さん。寺子屋の子どもたちが「切字」をお習字しています
素人がどんだけ読み込めてるかはさておき、読みやすかったというのは、問題の立て方、論じ方、くすぐりの入れ方に素人をも惹きつけるうまさがあるからですね。さすがは編集者。そう、高山さんは芸術新潮の名物編集者(本人のいない飲み会でよく話題に上がるタイプ)でもあるのです。
しかも今は、朝日俳壇の選者もやってる、著名な先生です。
そんな立派な先生が身近にいるなら、いっちょ弟子入りしとこうかなと思って、牛鍋屋で
「高山宗匠の弟子になりますから、俳号をつけてください」と酔いまかせに言ってみました。
その時はワイワイ飲んでてどういう返事をもらったか忘れてしまいました。酒の席の冗談としてお互い忘れてしまうだろうと思っていました。ところが案に相違して、帰り道にスマホがショートメッセージを受信したのです。
「早速ですが、蛾王はどうですか?伊野蛾王。画王とガオーを掛ける趣向です。画そのまんまだとなんなので他の字に置き換えたいわけですが、雅も違うでしょう。蛾の語なら伊野さんの情念にも合っているかと」
なんと、先生は私の俳号を考えてくださったではないですか。
のんきに生きてるつもりだけど、私にも情念らしきものがあるのでしょうか。確かに過去に高山さんに食ってかかった醜態もなきにしもあらず。ルサンチマンをエネルギーにしてきたところもなきにしもあらず。
他には「画報→蛾砲」「画工→蛾公」というのもありました。
「師匠!ありがとうございます。いきなり名前負けしちゃいそうですけど、師匠のつけてくれた名前ならありがたく頂戴いたします。ガオーが高貴でいいですね。王様ですし。でも自分には高貴な感じないですけど。セコくて庶民的なキャラですけど」
と、送った後で、ふと思いついたので、さらにこう返信してみました。
「蛾吐で画伯はまんまですかね?」
名前をつけてくださいとお願いしておきながら、あつかましいですね。
師匠はこう言われた。
「吐を「と」と読ませるならともかく「はく」と読ませるのは汚いですね。王は遠慮するということなら「蛾伯」または「蛾白」でいいのでは。曾我蕭白が好きなんだからどんぴしゃりでは」
「なるほど、それなら我ながら納得できる余地はあります。蛾白という字は綺麗ですね。なんか妖艶で。気に入りました」
「その屈折した受容の仕方がまさに「蛾」的な情念を感じさせます。グッドラック!」
というわけで、私は伊野蛾白になった。
自分で画伯って言うなって。
山本健吉『現代俳句』(昭和20年代の末に角川新書で2冊本で出て、その後も増補版が角川からいろんな形で出ています。新書だったことでもわかるように、入門的な名句鑑賞案内なのですが、現在から見ると入門書とはとても思えないいかつさです。文学とか芸術というものに権威があった時代の本という言い方もできるでしょう。by師匠)もちゃんと新品で買いました。
でも、まだ1ページも読んでいません。
ガオー!
今週金曜日からはじまる「手のひらサイズのオブジェ展」という84名も参加するグループ展に、テキトーに作ったオブジェ(?)を出しますので宣伝します。適当というのは、学校の時にテストにあったでしょ、「適当な答えを書きなさい」というのが。そっちの適当ではなく、いい加減な意味での適当です。いい加減も「あら奥さん、お塩、ちょうどいいお加減よ」という意味でのいい加減ではなく、「あいつってほんといい加減なやつだよな」のいい加減です。植木等的な意味です。植木等の歌や映画はご覧になったことがありますか?無責任にテキトーに生きて、しかもうまいこといっちゃう植木等を見てどう思いますか?サイコーじゃん!と思いますよね。
植木等(演じる、歌うところの主人公)はいい塩梅をねらって何かをやったわけではないのです。本当に適当に生きてるだけなのです。いつかそんな風に生きれたらいいよな、とか言って真面目に生きていると、単に年をとってゆるくなるだけで終わるでしょう。私なども常にテキトーな絵を描くことを心がけております。
ところが、絵というのは、いくら絵がいい加減であっても、紙はいつもピシーッと平らなのです。仙厓さんのひたすらゆるい禅画も、ピンと軸装されているのです。
そこで今回の出品作は、絵を描く前のカタチもいい加減に作ることにしました。粘土で作っていますが、いい加減を装ってるわけじゃなくて、本当にヒョイヒョイとやってます。絵付けも超テキトーです。
今回は販売もありなので、売る予定ですが、こんなに適当に作って一体いくらの値をつけるのでしょう?
植木等ならめっちゃ高額にするだろうな〜(笑)
会場にはこのおじいさんたちは連れて行きませんが、数年前に作った幽霊のモビールも飾る予定です。季節外れだけど。
というわけで、暇な人は見てやってください。暇でなかったらいいです。
昨日おとついと、京都に行って灼熱の中を歩き回ってたので、今日はバテてます。
昨日、京都の秘境で出会った仙人の写真です。
ではみなさんさようなら〜。
いきなりクイズです。この写真の人物は誰でしょう?
答えは後ほど。
さて、数年前にある有名小説家の文庫のカバーを描いたことがありました。
その本は最初単行本になり、次に文庫化され、今度は出版元が変わって2度目の文庫化でした。
ゲラに目を通していると若い女性のTシャツの描写のところで目がとまってしまいました。〈Tシャツの胸には、浮世絵のプリント。伊藤若冲の像の絵というのが、強烈だ。〉と書いてあったからです。
いや、若冲は浮世絵ではないぞ。
この本は3度は校閲されている。いや、雑誌で連載されていたら4度はチェックされているはずです。
イラストレーターが口を出すのも僭越だと思いましたが、幾度となく校閲をかいくぐってきたマチガイを担当編集者に伝えておきました。
ひと月後、カバーを描いた文庫が届きました。どう直っているか確認してみると〈Tシャツの胸には、日本画のプリント。伊藤若冲の像の絵というのが、強烈だ。〉となっていたのです。
いや、若冲は日本画でもないのだ〜!
では「日本画」とは何でしょうか?
今発売の「芸術新潮」にはこう書いてあります。
〈日本の伝統と西洋美術のハイブリッドから生まれた新たなる日本絵画、それが「日本画」である〉
そうなのです。
日本画は明治になって西洋画に対抗すべく作られたジャンル(概念?)なのです。
美術の教科書などでは、日本画の成立は、プロデューサー役のフェノロサと岡倉天心、画家の狩野芳崖や橋本雅邦たちによって、そして東京美術学校で彼らに学んだ横山大観や菱田春草たちによって「日本画」は作られたと書いてあるんじゃないでしょうか。
今特集においては、それよりも約100年前に「写生」を武器に京都絵画界を制した円山応挙とその系譜につらなる絵師たちに「日本画」の出発点があったのだ!という、もう1つ別のルートが示されています。
実際に、明治40年に文展(文部省美術展覧会)が発足して、横山大観や菱田春草ら東京美術学校出身者と、京都の竹内栖鳳、木島櫻谷らの作品が一つの会場に並んだ時、両者の絵にたいした違いがなかったらしいんすよ。
へぇ〜、へぇ〜。面白いね。
是非お買い求めくださいな。
特集では京都の画家たちをメインに記事にして、東京の出来事はマンガでまとめて見せています。
フェノロサと岡倉天心が大事にしなかった画家の方が今は人気者なのです。
そのことは以前「天心が埋めて惟雄が掘る」というタイトルでブログに書きました。
奇想VS正統派ってことでしょうが、今の時代は奇想の方に軍配を上げてますかね。
でも、天邪鬼な性格の私は、だったら今の時代に正統派が本当に正統派か確認しに行くのもいいんじゃないかなと思います。
ま、京都の豪華な料亭や商家やお寺を飾る絵として描かれたりしてたんだからね。あんまり気が狂ったような絵は描かないよね。
まだ観に行ってないけど藝大の美術館でやってる展覧会「円山応挙から近代京都画壇へ」を楽しみにしています。
戦前にピークをむかえた「日本画」も、今となっては概念がよくわかりません。
金ピカの額縁で絵の具コテコテでも「日本画」だったりするし。もう「洋画」なんて区別も無意味ですしね。でも日展とかまだ「日本画」と「洋画」ってわかれてるんですね。
さてクイズの答えですが、正解は岡倉天心。
岡倉天心といえばこういうエラっそうな写真のイメージですけど、若い頃は歌舞伎役者のようなイケメンだったんですね。
もし興味があればこっちもお読みください。
おわり。
いや〜涼しいとどんだけでも眠れますね。春になって寝まくっていたことを思い出します。
先日、都内の某一流ホテルで第161回芥川賞・直木賞の贈呈式が開かれ、私も招待していただいたので行ってまいりました。もちろん直木賞を受賞した大島真寿美さんを寿ぐために。
いったいどんなに盛大なパーティーなんだろうと想像するとそわそわしてきて、気がつくと、家を出る予定の時間よりもずいぶん早くに用意を整え終えてしまいました。
仕方なく、近所のカフェ(週に2回、ここのおじさんとジョギングしている)に行き時間を潰しました。カフェのおじさんも、会社員時代に芥川賞・直木賞のパーティーに出たことがあると言ってました。今「日曜美術館」のホストをやっている小野正嗣さんが受賞した時に仕事終わりにかけつけたそうです。
「今月のオール讀物で、『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』がまた掲載されるんで、挿絵を描いたんだよ」
とおじさんにオール讀物を見せましたが、
おじさんはろくに見もしないで、「パーティーに行くとさ、バッヂみたいな、シールになってるやつをもらって胸に貼るんだよ。わたしは捨てないで、朱肉の蓋に貼ってある」と店の奥から朱肉を持ってきて見せてくれました。
シールは文藝春秋のマークでしょうか。日本文学振興会のマークなのかな。
それはさておき、挿絵の中の劇場の看板に注目。なんて書いてあるでしょう。
会場となっているホテルに着くと、ロビーでひふみん(加藤一二三名人)が談笑していました。さすが超一流ホテル。
受付をすませると、おじさんの言うようにマークのシールをもらいましたので、シャツに貼りました。
アナウンスが流れ、受賞作家の方を個人で撮影するのはNGです、SNSなどに載せないで、ということだったので授賞式の写真はありません。
ま、この氷の白鳥くらいはいいでしょ。
贈呈式が終わったあと、大島真寿美さんにご挨拶しようと思って列に並びました。実はお会いするのは初めてなのです。担当編集者の方とも。
この時にはじめて知ったのですが、2年ほど前に「小説すばる」で連載していた素人丸出しの退屈な私のエッセイ『ぼくの神保町物語』も大島さんに読んでいただいたみたいで、恥ずかしさで胸がつかえてしまいました。ゴホッゴホッ。今回の挿絵も大島さんのご指名だったと聞き、心の中で喜びの舞を踊りました。
担当さんがお三輪ちゃんの前で記念写真を撮りましょう、と言ってくれてはいパチリ。
大島真寿美先生、改めておめでとうございます!
国立劇場で文楽を見るときは、いつも後ろの方の席なので、人形を近くでまじまじと見たことはありませんでした。よく見ると、お三輪ちゃんの口から針のようなものが出ています。なんでしょう?かわいい顔に似合わない凶器。
後で友達に「針は手ぬぐいや袂を咥えさせるためのものだと思う」と教えてもらいました。しかし、きれいに作られていますよね〜。
一回くらい一番前の席で観たいもんだわ。
大島真寿美先生に誘われて、来月開かれる「豊竹呂太夫師匠発声教室」というのにも申し込みました。私もうなるんでしょうか。うなってみたい気もする。
華やかな世界から貧乏くさい家に帰って、まず私がしたことはシャツの胸からシールを剥がし、朱肉の蓋に貼りなおしたことです。請求書にハンコを押すたびにこの夜のことを思い出すでしょう。
おわり。
30代の半ばくらいまでは、挨拶の時に「いい天気ですね〜」とか「雨がよく降りますね〜」などと言うのに抵抗があった。
そんな当たり前のわかりきったことを言いたくない。
しかし最近はその一言をつけ加えるのがむしろ好きだ。当たり前のことを言っているのではなく、それは単なる挨拶の一部だってことに気づいたからである。
近年の夏の「暑いですね〜!」は挨拶でもあるが、わかっているけど黙っていられない心の叫びだけど。
暑い暑い!
先日、寄った京都の東寺も猛烈に暑かった!東寺が暑いのではなく、京都が暑いのだが。とある仕事のために近江八幡と大津に取材に行ったついでに(京都に比べると琵琶湖からの風が気持ちいい)足をのばしてはじめて東寺に寄ってみた。
琵琶湖の南端、大津から京都へはJRでふた駅、時間にしてたったの10分で着く。東寺は京都駅の近くです。「芸術新潮」の去る5月号で東寺の特集があって、私は空海の絵伝を描いたのだ。
せっかくだから空海のお寺、東寺へ行っておかなくてはと思ってね。
空海も密教もうすらボンヤリ知っているだけだった。編集部にレクチャーを受け、北大路欣也主演の『空海』をDVDで鑑賞し、東博で開催されていた「国宝 東寺ー空海と仏像曼荼羅」も観た。
↑東博の東寺展で見た帝釈天像
桓武天皇(映画『空海』では丹波哲郎が演じていた)の平安遷都にともない、計画された東寺は京都の数あるお寺の中でも抜群に古い。
以下、うすらボンヤリ知識で書くけど、今と違って、古代において仏教は国家運営に必須な、五穀豊穣を保証し、疫病神を追い払い、朝廷を脅かす敵を降伏させる威力があると信じられていた、と〜ってもありがたいものだったのである。(民を救う個人救済の側面が強調されるのは鎌倉時代まで待たねばならない)
「鎮護国家」という言葉を昔学校で習った覚えがあるでしょ?それですよそれ。祈祷することがマジで威力あると信じられていた時代です。
いやいやバカにしていけないよ。
「信じる」とは「考える」とも「感じる」とも違う特別な心の働きであって、今の人間にはなかなか難しいことなのです。
奈良平安時代の仏像と江戸時代の仏像を比べてみれば、その差は歴然としている。やはりこれは技術やセンスの違いじゃなしに、マジで信じているかどうかの違いではないでしょうか。近世の江戸時代はもうマジでは信じていないと思うね。
ま、信心だけでなく、世界最新最高の中華帝国を経てやってくる仏教は、新しい文化や技術ともセットになっていたわけですしね。
さて空海。
弘法大師空海はどのような生涯を送られたのでしょう。
芸新に描いた『新 弘法大師行状絵詞』で見ていきましょう。
空海は幼名を真魚(まお)と言い、774年に讃岐国(香川県)に生まれた。
母親が、天竺より聖人が飛来して自分の懐に入る夢を見て、空海を懐妊したという伝承もあるという。
15歳頃に都に上り、18歳頃大学に進学。秀才はメキメキ勉強してより秀才になり、大学を辞めて仏教を志す。
各地で修行に励むうち、土佐の室戸岬で明けの明星が口から体内に入り込んだ。
なんぞめでたいことの吉兆だろうか。絵伝では飲み込んだ星を海に向かって放出しています。
空海は日本にあって密教について調べられるだけ調べた。
いやしかしこれではまだまだ足りん、ぜひ唐に渡って直に密教の真髄を学びたい!と決意し、804年に遣唐使の船に乗る。正式に僧になったのはその直前、31歳の時、東大寺でだったんだって。
遣唐使船は暴風雨にあおられるもなんとか漂着。海賊かと怪しまれたが、そこは我らが空海、自分で書いた書状の字を見せたら役人が驚いた。
こいつは只者ではないあるね!
空海の後ろで瀕死の状態の日本人がいるが、これにはモデルがいる。誰か忘れたが映画の中で石橋蓮司が演じていた人です。どうでもいいですが。
↑本物の「弘法大師行状絵詞」に描かれた空海の書の書き方!中国人もびっくらこいた
長安では、まずインド人の僧に梵語を習った。語学の天才はあっという間にマスターし、準備は万全。いざ真言密教の第一人者、恵果阿闍梨を青龍寺に訪ねる。
ちなみに高知県にある青龍寺は横綱朝青龍の四股名の元である。どうでもいいですが。
さてさて空海は恵果阿闍梨に大歓迎されて、密教の全てを授かった。恵果阿闍梨は異国の若者になぜそこまで?と思ったけど、密教を伝えなきゃいけない使命感もあるし、日本からやって来た優秀でエネルギッシュな空海を見て、彼なら!と思ったんでしょうな。
また空海もこの密教の真髄を早く日本に伝えねばという使命感により、たった2年で日本に帰るのでした。
本当は20年間留学していなきゃいけなかったのに…。
日本に戻った空海だったが、20年留学してこなかったので平城天皇(映画では中村嘉葎雄が演じていた)にプンプンされて筑紫に留め置かれる。
しかし809年、新帝嵯峨天皇(西郷輝彦だった)から許しが出て帰京。
密教の先輩、最澄(加藤剛であった)に密教の経典を見せて欲しいと頼まれ交流も生まれる。
映画では北大路欣也演ずる空海はいつも自信満々で、加藤剛にもマウンティングしていたように見受けられたが、きっと素人目にそう見えるだけで、密教の密な交流があったのでしょう。でも、なんか感じ悪かったな。あくまで映画の話ね。
823年、西郷輝彦、いや嵯峨天皇より東寺を預かる。
私の絵伝では講堂を建立し、立体曼荼羅を納めるところを想像して楽しむ空海を描いてみました。
↑これが東寺の講堂です
813年、加藤剛、いや最澄からお経の借用の申し入れがあったが断る。最澄から預かっていた弟子が、空海の元にとどまることを希望したこともあって、二人は絶縁状態に。
821年には生まれ故郷、讃岐国の満濃池(まんのういけ)の堤防を修築。
映画では、空海は堤防を弓なりに築くことで「強さが三倍になる」と合理的なアドバイスをしていた。最新の工学知識もちゃんと伝えて、あとは不眠不休で加持祈祷。
実際に人夫に混じって陣頭指揮したり、手伝ったりはしない。
ひたすらひたすら加護を祈祷する!
そのおかげで難航していた工事も短期間のうちに終えられたのである。まさに空海の祈祷のおかげなのです。
ここに疑問を持ってはいけない。疑問を持つのは密教を理解していない人だ。疑問を持たず信じることで密教は密教なのだ。でも、空海は最新の知識も伝えているので、単なる呪術ではないですね。
私は密教の説明を読んでもむずかしくて全然よくわからないです。
とてもわかったような口はきけません。ごめんなさい。
835年、死期を悟った空海は高野山に向かい、3月21日午前4時頃、同地で入定。50日後にお体は奥之院の御廟にうつされる。
空海はいまなおここで生きて世の太平を祈願していると信じられている。
921年には朝廷から弘法大使の諡号を贈られた。
で、東寺ですが、あいにく宝物館は閉館中で、東博で見た美仏たちとも再開できなかった。
食堂に入ると、奥に異様な仏像が立っていた。
3メートルはあろうかと思われる真っ黒に焦げた四天王像。
昭和5年の食堂の火事で焼けたそうだが、きっと焼ける前より恐ろしさは倍増している。そのお姿に暑さも忘れてしばし見入ってしまいました。
下は食堂で売っていた般若心経手ぬぐい。
300円也。
とても安くてありがたい手ぬぐいです。
はい、おわり。
抽象画には、すげー面白い抽象画とまあまあ面白い抽象画とぜんぜん面白くない抽象画があって、私には一目瞭然なのだが、その差を言葉で言い表すことができるのだろうか?いやできない。
ここに2枚の抽象画と1枚の画板がある。
作為的に作ったものと、自然に出来たものである。
こんなものを載せていったい何を論じようとしているのか?
抽象画を言葉で論じるなど不毛なことだと前置きしておきながら……。
『するどさもうつくしさもないみじめなどうぶつ』Takayuki Ino / 2013
『まばたきに用いる幾度かの闇さえ不安だ』Takayuki Ino / 2013
『金魚鉢のポスターをじっと見つめる黒猫と白猫』Takayuki Ino / 2019
さ、今日は午前中から取材旅行に出かけなければいけないのだ。
滋賀と京都に行くので、ついでに今まで口にしたことのない鮒寿司を食べてこよう。
もう出かける時間だ。
そんなわけで、前振りに対して何も回収しないまま、ブログは終わりだ。
絵と言葉について、考えたい人は考えたらよい。
言葉でコミュニケーションできない人だって素晴らしい絵を描く。
非言語的な質を有する絵画を言葉で考えることの意味はなんなのだろうか。
え?…今週はネタがないのにブログを無理に更新してる状態じゃないかって?
…そうです。
…おわりです。