伊野孝行のブログ

妹背山婦女庭訓魂結び

南伸坊さんの新刊『私のイラストレーション史』はもうお読みでしょうか。今週は誰にも頼まれていない書評を書こうと思ったのですが、準備ができずに来週以降に繰り越しました(笑)。
となるとどうしましょう。
また実家の猫の写真でも載せようか。瞬く間に体重も1キロほど増え、ぬいぐるみ状態からすっかり子猫らしくなってきている。いやいや、ネコの写真はもう載せないと決めたんだ。
そうそう、6人の候補者が全員女性ということで話題になっていた直木賞ですが、6人の中に大島真寿美さんがいらっしゃるじゃないですか。大島さんの新作『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』が候補作です。読めないでしょ?タイトル。渦は「うず」だけど、その後は、「いもせやまおんなていきんたまむすび」と読みます。
私はこれ最初っからスラスラ読めました。実はこの小説が連載されたときに挿絵を担当してたんですが、だから読めるんじゃなくて担当する前から読めてたの。
もう何年前かな?5 、6年前かな?それくらい前から国立劇場でやってる文楽公演に通っているのですが、一番最初に観た演目が「妹背山婦女庭訓」だったんですよ。後半の三段目と四段目を見たんだと思います。
はじめての文楽鑑賞の感想は、イヤホンガイドを聞きながら、目は舞台上の人形と人形遣い、舞台の袖でうなってる義太夫さんや三味線奏者を行き来して、で、ときどき舞台の左右に出る字幕やパンフレットも見てたんで、なんだかいそがしく、「……しまった、最初から全部キチンと見ようとしすぎだ。こんな見方は間違っている」と後悔しました。今はイヤホンガイドだけで観てます。
この「妹背山婦女庭訓」の作者、近松半二の生涯を描いたのが『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』であります。
まあ、ざっと挿絵を見てください。この人形浄瑠璃の芝居小屋の建物は間違っている。明治以降の資料を使ってしまったようだ。なので真似をしてはいけません。

江戸時代の人形浄瑠璃の芝居小屋はこういう感じだったようだ。たぶん正解。小説誌の挿絵くらいでは時代考証の専門家はついてくれないので、絵描き任せなのだ。僕も含めて挿絵には間違いは多いと思う。しかし、時代考証など全く無視してるのが文楽や歌舞伎なのでした。

〈江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂・道頓堀。
大阪の儒学者・穂積以貫の次男として生まれた成章。
末楽しみな賢い子供だったが、浄瑠璃好きの父に手をひかれて、芝居小屋に通い出してから、浄瑠璃の魅力に取り付かれる。
近松門左衛門の硯を父からもらって、物書きの道へ進むことに。
弟弟子に先を越され、人形遣いからは何度も書き直しをさせられ、それでも書かずにはおられなかった半二。
著者の長年のテーマ「物語はどこから生まれてくるのか」が、義太夫の如き「語り」にのって、見事に結晶した長編小説。
筆の先から墨がしたたる。
やがて、わしが文字になって溶けていく──〉
文藝春秋のサイトからの引用ですが、このような内容です。文楽を作った人のことまで考えたことなかったけど、半二やこの時代に人形浄瑠璃を作ってた人たちに共感するぜ。工夫ですよね、工夫。大事なのは。大島真寿美さんのこの小説もすごく工夫されてます。

先月の文楽の東京公演は「妹背山婦女庭訓」の通し狂言でした。第1部と第2部を通しで観ると丸一日かかるのですが、僕が観たのは第1部の方。最初の文楽鑑賞で「妹背山婦女庭訓」を観たのは後半だったので、まだ未見の前半を観たのです。これで一応通して観たことになりました。
天智天皇と中臣鎌足、蘇我蝦夷に蘇我入鹿親子が出てくるので、時代は大化の改新、飛鳥時代かと思いきや、奈良の都はすでにできており、描き割りには興福寺も描かれている。と思いきや、登場人物の衣装は江戸時代で、話の舞台が町や村に移ると完全に建物、調度品なども江戸時代。これは「妹背山婦女庭訓」に限ったことではなく、文楽も歌舞伎もみんなそうだし、昔は時代考証という研究自体が進んでいなかったし、逆に時代考証をやったところで当時のお客さんには響かなかったかもしれない。また忠臣蔵のようにあえて他の時代に置き換えなければやりにくい事情もあったでしょう。
忠義のために自分の幼い子供を殺すなんていうのもよく出てくる場面で、今の時代からすると共感度ゼロなんだけど、この全体通して滅茶苦茶な感じが、物語にロケットエンジンを搭載させてるようでもあり、昔の人は基本今よりぶっ飛んでるなぁと妙に感心します。でも、今の我々の胸を打ったり締めつけたりしてくる人情への働きかけもあり、ご先祖さまたちと同じように感動してしまうこともあります。
我々にとって奇異であり、今もどこかで繋がっている古典芸能。
今でも上演できるってことはすごいことだよ。
しかし、僕は文楽を見に行くと必ず1回は居眠りをしてしまいます。
原因は退屈なのか気持ちいいのかよくわかりませんが、退屈の質もまた現代とは違うんじゃないかなという気はします。
『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』として単行本になった時は、カバーの絵は頼まれなかったので、結局、縁はあんまりなかったというか、ま、これはよくあることなんで気にしてませんが(だったら書くな 笑)、直木賞取ったら、マジ嬉しいっす!

祝・国際エミー賞最終候補

先週、ブログをちゃんと書く時間がなかったんで、実家で飼い始めたネコの写真をアップしたところ、普段の記事よりはるかに多い「いいね」やコメントをいただき、アクセス数も伸びていました。

…………ったくさぁ、なんなのよ、ネコってやつは。というか、普段の自分のブログ記事はなんなのよ、って話ですけどね。

いやいや、単なる数字の話でしょ。ネコの写真をあげる方が数字が伸びると言って、そんなことばっかりやってたら仕事なくなっちゃうんですから。

しかし、会う人会う人、「ネコかわいいね」って言ってくるんですよ。いつもはブログの感想なんて言わないのに。

まだ僕も写真で見てるだけだから、思い入れは他の人と変わらないと思うんですよ。だから、飼い主ならではの贔屓目で見てない。冷静に判断できると思ってるんですよね。

客観的に見て……やっぱりウチのネコはかわいいよね?

それは置いといて。もうネコの話しませんから。
本業の話をしましょう。
先日、NHKの近くの某レストランで「昔話法廷」スッタフの打ち上げ的な会がありました。
知らない人に手短に説明すると、「昔話法廷」は裁判員制度導入で一般人も裁判員になるかもしれないというこの時代に、作るべくして作られた傑作番組です。
昔話の登場人物動物が裁判に出廷。それを裁く裁判員はキミだ!ということで、教室で大いにディスカッションしてもらうために作られた教材でもあります。ウェブの「NHK for School」でいつでも番組は見ることができます。
で、この番組は優秀で、第1シリーズでは、グッドデザイン賞(一応、私も対象デザイナーになっているのよ)。そしてドイツ・ミュンヘンで2年に一度行われる子ども番組のコンクール「プリ・ジュネス」で国際子ども審査員賞も獲得しているのです。
で、またまた今度は第3シリーズが国際エミー賞( 世界の優れた番組に贈られる歴史ある賞)の子ども番組部門のファイナリストに選出され、ま、結果は惜しくも受賞には至らなかったんですが、ディレクターのHさん(番組の企画者でもある)がカンヌから持ち帰ったワンセットしかない表彰状とメダルをみんなで変わりばんこに記念撮影したんです。
この写真だけ見ると受賞しました感が溢れちゃっていますが、ファイナリストに選出された賞状とメダルですので。
僕はカンヌに行ってるわけじゃないですよ、渋谷です。
この絵は「アリとキリギリス裁判」から。アリとキリギリスは幼少の頃は仲が良かった。二人で虫のくせに虫取りに出かけるの図。アリのTシャツにはANT(アリ)と書いてある。
「伊野さんはすきあらばこういうネタをぶっこんでくる人です」とディレクターのHさんはみんなの前で紹介してくれたけど、打ち合わせの時に毎回乗せてくるのはHさんなのでした。
我々スタッフはお互い初めての人もいるので、自己紹介タイムや質問タイムがありました(胸に名札シールをつけてたのもそのため)。みんなのエピソードなどを面白おかしくいじりつつ紹介し、進行をしてくれたのもディレクターのHさんでした。
この番組をやっていた4年間、僕はHさんとしかやりとりしてなかったんですが、打ち上げでは、ぬいぐるみを作った方々、ぬいぐるみの中に入っていた役者さんたち、脚本家さん、監修の弁護士さん、編集さん、音効さん……たちと一堂に会することができました。
あと、番組を仕上げる前に学校で模擬放送みたいなことをして様子を見る(判決が一方にかたよらないようにするため、生徒たちの反応を見る)らしいのですが、そこで協力してくださった小中高大学の先生たちもお見えになりました。
この絵は「さるかに合戦裁判」より。人間でこれを描写したらエライことになるが、カニならオッケー。サルに柿を思いっきりぶつけられたらカニはどうなるか?絵本で描かれないリアルドキュメント描写ができるのもこの番組ならではのところです。またこういった描写がなければ裁判の判決が一方に片寄る可能性もあるのです。
実際に完成したこの番組を使って、授業でディスカッションしてるところもディレクターのHさんが取材に行って、その様子を映像で流してくれました。
感激でしたね。
「ああ、こうやって見てくれてるんだ」って。
ディスカッションを重ねると途中で意見が変わる生徒も出てくるらしいんですよ。それっていまの分断化が進む社会に一番必要なことじゃん?
ほんと有意義ないい番組に関われたと思いましたよ。
そして、もうひとつおもしろいVTRがありました。
この番組が大好きだっていう小学生の女の子が、番組宛になんとオリジナル「ピーターパン裁判」の脚本を送ってきたんだって。
将来は弁護士になりたいというその子の家にもHさんは取材に行って、彼女の脚本でプチ昔話法廷「ピーターパン裁判」を作っちゃったんだから。それは彼女へのサプライズであると同時に、我々へのサプライズでもあったんです。
僕は内容を知らされないまま、頼まれたピーターパンのワンシーンを描き下ろしました。
ビデオ映像を見ながら、みんなマジ感激&感心。
単なる打ち上げではない素敵な宴を開いてくれたHさんと、このあったかくなってたまらない気持ちを分かち合いたい。お礼を言いたい。
さあ、もう一度乾杯だ!
と僕は歓談タイムに席を立って、Hさんのところに行き、
「いや〜どうもどうも、Hさん、ありがとうございます!お疲れ様です!」
って言って、グラスをカチンとしました。
で、その後にHさんなんて言ったと思います?
「伊野さんのネコかわいいですね」
って(笑)。
ああ、もう……どんだけネコなんだよ。ネコは仕事の邪魔してくんじゃないよ!
というわけで、ネコの写真、もう上げないですから。

ネコ教に入信しました

ついにネコ教に入信してしまいました。

しかも通信教会です。

うちの実家(年老いた両親の二人暮らし)でインコを飼ってたんだけど、去年逃げちゃって、心の隙間を埋めるためにか、今度はネコを飼おうかと話していたらしい。

うん、それいいんじゃない。老人の会話のネタになるだろうし。実家に帰って来た時にネコがいるのも悪くないね。ネコは僕が実家暮らしをしていた時に通算5匹?くらい飼ってたことあるので、ネコのだいたいはわかっているつもり。

で、両親が保護ネコをもらいに行ったら、猫より先に死ぬおそれあり、ということで年齢制限に引っかかって、もらえなかったんだって。でも一度飼うと心に決めたから、あきらめられずに知り合いに頼んでたみたいで、ついに子ネコがもらえそうという連絡があった。

聞けば最近流行りのブサカワ顔のエキゾチックショートヘアという種で、画像検索したら、んー、なんかこれは思ってたネコと違うなー、ふつうのそこらにいるネコがいいんだけどなーと思いました。ちょっとガッカリでしたね。

そしてつい先日、エキゾチックショートヘアとかいう名前の種の子ネコがやって来て、写真が送られてくるようになったのですが、これが……なんなの……もう……なんなの……ヤベェ♡……ヤベェ♡……こいつはなんなんの、こいつは、こいつは……もう……と気づいたらネコ教に入信してました。

もっと写真を送ってくれと本部に言って、届く写真を見ては、なんなの……もう……なんなの……ヤベェ♡……とお経を唱えています。10年間ブログを更新して来て、ついに絵とはなんの関係もないネコブログになってしまいました。まるで人が変わったよう。

そう、それが宗教というものなんだニャ〜。

興福寺火事絵巻その4

南 いま展覧会に行くと、人がすごいじゃない。最近は、何かで人気に火がつくと、集まりすぎ。イヤホンつけて、ひとっところにじっと溜まる。あれはなんとかしてほしいな。あれも、ちょっとね。あれ、最初に別室で映像見ながらイヤホンガイドで言ってるようなこと勉強して、それから実物を見るようにしてほしい。
伊野 なんとか混まない工夫をして欲しいですね。美術館は、空いてるのがいいんですから。空いてなければ美術館じゃないっていうか、美術館に行った気がしないというか。以前、阿修羅展に行ったら、阿修羅像のまわりがぐるっと三六〇度ライブハウスみたいにすし詰め状態でした。
編集部 混雑がすごいときは、一時間以上並んだりすることもあるみたいですね。
伊野 動員数のランキングが出たりして、人が来るのがいい展覧会みたいな風潮が最近はありますよね。
 若い人よりも、年配の人のほうが多いんじゃない? オレと同じくらいの(笑)。
伊野 阿修羅展は高齢者のすし詰め状態だったから、ヤバかったっすよ。
(「望星」4月号掲載、南伸坊さんとの対談「絵?好きに見てください」より)
この対談で話題に出した阿修羅展というのは、2009年に東京国立博物館で開催された興福寺の創建1300年記念「国宝・阿修羅展」のことです。マジで具合が悪くなっちゃう人が出ちゃうんじゃないの?という混みようで、国立の博物館の商いって、こんなのでいいのか?って呆れました。
ところがこの展示、とにかくいっぱいお客さんに見てもらわなきゃいけない切実な理由もあったんですね。
さて、NHK「歴史秘話ヒストリア」のために描いた絵を元にお届けしている「興福寺火事絵巻」も今回が最終回。
七転び八起きの7回目の火災です。
奈良時代に建てられた興福寺は、平安から室町にかけて6回焼けて7回建て直しているのですが、意外にも戦国時代は焼けていない。
あーよかった、よかった。確かにそれはよかった。でも戦乱の世が過ぎ、徳川の世になる頃にはすっかり興福寺の威光は衰えていたのです。
7回目の火事が襲ったのはそんな時代。
1717(享保2)年、正月4日、中金堂の背後の講堂に盗賊が忍びこみました。
灯した蝋燭を落として引火。
 「まずい!」
「逃げろッ! 」
講堂の内陣から上がった炎は 、たちまちのうちに中金堂へと燃え広がった。
火付盗賊改の長谷川平蔵?
んなわけない。火消装束に身を包んで駆けつけたのは大和小泉藩の藩士たち!
「あっ!中金堂がッ!!」
「東金堂にも火の粉がかかっておるッ!」
東金堂にかかった火を必死になって止めます。
時代は江戸まで下ったといっても、消防技術はこんなもの。江戸の町の火消たちも燃えそうな家を破壊することによって火事の広がりを防いでいたわけですが、さすがに興福寺をぶっ壊すわけにもいきません。
「なんとか消えたか…」
「いかん!今度は西金堂じゃッ!」
やばいっす、やばいっす。西金堂には阿修羅像もあります。実際に興福寺に行くとわかりますが、中金堂、東金堂、西金堂はけっこう離れてるんですよ。火事の熱風というのは恐ろしいですね。
「手をお貸し下され!」
「承知!」
阿修羅像などの十大弟子像は乾漆造で軽いので、救出は容易です。だから今まで残っているわけですが、今でこそ仏像界のスーパースター阿修羅像も、当時は脇仏の一つに過ぎません。阿修羅よりも大切なのは御本尊。でも御本尊は中が空っぽの乾漆造ではなく、木像なのでとてもじゃないけど持ち出せない。
「残るは御本尊さまだッ」
「ああ、お堂の中に火がッ!」
近所の町人も駆けつけています。
「こんな大きな御像をどうやって!?もう間に合いませぬ!」
「なんとかして、なんとかして、お顔だけでもお助けするのだッ!」
この時に救い出されたのが、運慶のデビュー作だった西金堂仏頭です。これですね。
7回目の火災では中金堂・西金堂・講堂・南円堂などが焼失。鎌倉再建の北円堂・三重塔・ 食堂、そして室町再建の東金堂・五重塔は無事でした。
ところがっすな、興福寺の力は衰えてますから再建は難航します。
当時の将軍は徳川吉宗。享保の改革をはじめ、財政を引き締め出したところ。
なにとぞお力添えを〜と頼んでも、にべもなく断られます。
「ならぬ。寺より財政の立て直しじゃ」
興福寺は藤原氏の氏寺でありますが、藤原の末裔、京都の公家たちも…。
「助けて欲しいんは、まろたちの方や」
幕府も朝廷もあてにできない中、 興福寺は民間から資金を集めるため、当時流行していた「出開帳」を行います。
出開帳とは寺の外に仏像や寺宝を持ち出し、公開して寄付を募ること。
江戸の浅草寺の境内で80日間行ったけれど、集まったお金は再建費用には程遠かった…。
火災から百年以上経って、 ようやく中金堂の基壇の上に仮堂が作られました。 本来の中金堂とは規模も質も違うので「仮堂」ね。
まーったく覚えてないけど、興福寺は小中学校の間に修学旅行か社会見学で行ってるはず。
私はたぶん、この仮堂を見てる気がするんだけど。
で、時代は明治になり、廃仏毀釈で興福寺的にはさらにさらに厳しい状況になります。
天平の栄華を誇った興福寺もついに断絶!
鎌倉時代に建てた食堂も取り壊され、こんなもんあったてしょうがねえだろってことで塀や門も撤去、境内が奈良公園になり、仏像が撤去された仮堂は役場として使われ…。
その後、1881年に「興福寺再興願」が内務省に受理され、14年ぶりに復活。
時は流れて平成に。
2000年に仮堂が解体され、 翌年から発掘調査が始まりました。出てきた礎石66個のうち、なんと!ナント!南都!64個が天平創建当時のものだったのです。
天平の夢をもう一度見たい!!
でも、文化財の修復には国から補助金が出るけど、新しく中金堂を作るのには出ないらしいんっすよ。
つーわけで、このブログの冒頭を思い出してください。
平成の「出開帳」をということに相成りまして、開かれたのが「国宝・阿修羅展」なんですね〜!
そっか、そっか、それなら仕方ないや。我慢しよう。入場券など、わずかばかりのお金ですが、私も中金堂の再建に役立ったわけですね。一昨年やってた「運慶展」も見にいったな。そこでも少し貢献してたわけだ。
ついに去年、興福寺は七転び八起きして中金堂は完成!
9年前に「阿修羅展」を見にいった時は、興福寺は名前くらいしか知らなかった。修学旅行で行ったかなぁ?程度。そんな私が興福寺の火事絵巻を描くことになるとはねぇ。明日の天気はわからない。人生、先のことを考えるのはやめよう。
ちなみに阿修羅像がふだん展示されている興福寺の「国宝館」は空いててすんごく見やすいですよ。オススメ〜。(完)

興福寺火事絵巻その3

興福寺火事絵巻、今週はその3!
5回目の火災は、運慶たちが参加した再建からおよそ80年後に起こりました。
健治3年(1277年)7月26日の夕刻、ビカビカ!ドンガラガッシャーンガラガラガラ!雷の閃光が中金堂の近くの僧坊に落ちました!たちまち上がる炎!
「た、助けてくれ!」「ああ!中金堂が燃えている!」
自然災害による5回目の火災では伽藍の中央が焼け、北円堂などは残りました。
火災から6年後、建設中の中金堂の前庭を裹頭(かとう)した衆徒が埋め尽くしております。再建の中心に立ったのは、衆徒堂衆たちでした。
ここで豆知識。武蔵坊弁慶やいわゆる僧兵たちがかぶっているのは、実は袈裟なのです。それを裹頭と言います。
議題は再建工事に必要な人夫の確保でした。時は鎌倉、武士の時代。平安時代のように朝廷や藤原氏が全面支援してくれる時代ではありませんでした。

「伽藍再興 のための土打役を大和国一国すべてに課すべし」
「もっとも!」
「権門勢家の領土だろうと気にせず、催促せよ」
「こっちの言うことを聞かなかったら、どうする!?」
※このシーンは使い回しに見えてそうではありません。人数が増えているよ!
村が燃えていますね。あら、人々が襲われている。
そうなのです。人夫を出すことを拒否した寺社の荘園は、決議どおり、衆徒たちによって焼き打ちされたのでございます。ベンベン。
こうして衆徒は時に武力を行使して再建のための人とカネを集め、 1300年に落慶法要にこぎつけました。 焼失から23年6か月がたっていました。
これが5回目の火災の顛末でした。
しかしその27年後、またまたまたまたまた6回目の火災が起こるのでございます。
鎌倉時代末期、興福寺では内部抗争が激化。堂衆の武力が寺の中の勢力争いに使われたのです。
そしてなんと!ナント!南都!あろうことか興福寺の境内で合戦が始まったのでございます!ベンベン!
1327年のことでございます。
「かくなるうえは中金堂へ…」
「籠城じゃ!奴らもここは攻められまい!」

そこに追っ手が現れます。
「罰当りどもめ!中金堂に立てこもるとは…」
「かまわん!攻め込めぃ!」
さあさあ、中金堂で合戦がはじまった!

攻め手が矢を放ち、守り手も応戦!
矢に打たれた衆徒が「アッ…」とたいまつを落とす。その火が楯に燃え移る!
「いかん!!火が…!」
「いくさしてるばあいかッ!火を消せッ!」
「ええぃッ!消えぬ!」
「なんとしたこと。わしらが中金堂を焼いてしもうた…」
6回目の火災は僧自らが燃やしてしまうという…あぁ、後悔先に立たず。興福寺後に建たず。
いや、それでも悔いた衆徒堂衆たちの尽力で、まもなく再建工事が始まりました。
しかし時代は急速に変化します。火災の6年後1333年に鎌倉幕府が滅亡。やがて続く南北朝の戦いで再建作業は進みません。
1392年足利義満が南北朝の合一を果たし、ようやく平和の日々が戻ってまいります。
3年後、再建工事の続く興福寺に義満がやってきました。
これは寺にとっては援助を頼む絶好のチャーンス!
「義満おもてなし計画」のひとつには世阿弥の舞もありました。
世阿弥は義満のお気に入りの役者だったのです。興福寺の衆徒たちは義満の歓心を買おうとしたのかもしれません。しめしめ。将軍様はご満悦じゃ。
世阿弥の舞のパートはパラパラ漫画みたいに描いたので、試しにGIFアニメにしてみました。ただつなげただけなので本当はこういう動きじゃないけどね。
さて、宴の後、衆徒代表が世阿弥に声をかけます。
「三郎、さきほどの舞、見事じゃった」
「猿楽師は、神事をつとめ、貴人の御意に従いまする。その心得ゆえ、当たり前のことをしたまで」
世阿弥の肖像画は残っていませんが、ものすご〜くイケメンだったとのこと。
度重なるおもてなしが功を奏したのか、義満が興福寺の再建を積極的に支援してくれたおかげでついに1399年再建工事が終わり、まってました落慶法要!合戦による消失から実に72年ぶり!
はい、この絵は使い回しじゃございませんよ。前回の絵と見比べてください。中金堂の屋根が大きくなって、勾配もきつくなっているのです。屋根の高さも高い。気づかなかったでしょう?気づいたら相当の興福寺マニアだぜ。
このお坊さんは誰であろう。出家した足利義満なんですね。
1回目の火災から中金堂の落慶法要まではたったの1年3ヶ月しかかかっていないことを考えると、72年は長〜いですね。時代が下るたびに長〜くなる。
現存する東金堂はこの室町の再建です。ほら、東金堂も屋根の勾配がきついでしょ。東金堂は中金堂の16年後、そして五重塔は約30年後に建てられたのです。今、我々が見上げることのできる五重塔を、世阿弥も見上げたに違いありません。この時世阿弥は60を過ぎています。
「命は終わりあり。能には…興福寺には…果てあるべからず」
そう、一言つぶやいたかもしれませんね。
「興福寺 七転び八起き」ということはあと一回燃えるんですが、今週はちょうど時間となりました。ベンベン!

興福寺火事絵巻その2

先週に引きつづきNHK歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」のアニメパートに描いた絵から。

七転び八起きというのは、まさに7回火事になって8回建て直したからですが、先週は3回目の火事までやったので、今週は4回目からはじめましょう。

3回目の火事(1096年)より4たび蘇った興福寺。

完成したのは火災から6年10ヶ月後の1103年。そこから78年間は無事でございました。しかし源平の戦いの最中1181年に4回目の火災が起きました。これがかの有名な大惨事、平家の南都焼き討ちであります。時は治承4年12月28日、反平家の立場をとった興福寺の僧兵を攻撃するために、平清盛の5男、平重衡が大軍を率いて南都へ進みます。対する興福寺はじめ南都の僧兵は、京都と奈良をつなぐ奈良坂に集結。押し寄せた平家の大軍と激しい戦いが続き、夜になりました。般若寺の門の前に待機する平氏軍。「暗さも暗し。火を出だせ」「おうっ!」と 楯を割って作ったたいまつを民家に投げて放火します。瞬く間に燃え広がる火!「これ、いささか強すぎじゃ」照明がわりにつけた火のはずが、 折からの強い北風にあおられ、大火炎となって南へ南へと燃え広がる。

やべえ!やべえ!これを見た僧兵たちも、戦どころじゃないね。「まるで地獄の業火じゃ!炎が飛んでいく」
「見よ。あの紅蓮の火柱を!あれは、東大寺の大仏殿ではないか!」 「わめき叫ぶ声が…焼き殺されておるのだ…」
「急ぎ興福寺へ!」
しかし、時すでに遅し…というか火が早し。

「ああ。中金堂に…。火が…」こちらは西金堂。すでに火の手はまわっています。

「運慶? 運慶か!」
「おお、おぬしらか!手伝うてくれ!仏様をお救いするのだッ!」
「おう!」

阿修羅像などは中を空洞にする「乾漆造」で軽かったのです。幾度の火災にあいながら今日まで残っているのはそのためです。アニメに描いたように運慶が実際に運び出していたとしても不思議ではないでしょう。

翌朝、おそろしい光景が広がっておりました。なんと!ナント!南都!ほぼすべての堂塔が焼け落ち、興福寺に逃げ込んでいた人々の骸八百体が残されていたのです。
「南無……」
小さな仏像は救い出されたものの、 大きな仏像のほとんどが焼けてしまい、新たに作り直さざるをえま せんでした。
焼き打ちの翌年、再建計画が始動します。宮中に公卿たちが集まり、再建の分担を決めました。
「造営の割り振りは、これでよろしな」
割り振り図をよくご覧ください。中金堂などは国家プロジェクトで再建されます。 講堂や南円堂は藤原氏が担当。 食堂などは寺が担当することになりました。しかし、東金堂と西金堂は割当てからもれてしまったのです。それを聞いた堂衆たちは…。
「… とあいなった」
「わしらの西金堂は?」
「割当てからもれた」
「なんと! 」「この条いわれなし ! 」
「いわれなし! 」
「西金堂は打ち捨てる気か!」
「わしらの儀式はどうなる?」
「みな、聞いてくれ!わしらの力で再建してはどうじゃ?」
「わしらで?」
「そうじゃ!堂衆の底力、見せてくれようぞ!」
「もっとも ! 」
「もっともじゃ!」
「もっともじゃ!」
この人は運慶です。この堂衆の中に運慶もいたかもしれないのです。いや、いたね、きっと。ところで僧兵たちが顔に巻いているものは袈裟なんですよ。番組では実際に袈裟で巻いてるところやってましたね。
堂衆たちは貴族たちから寄付金を募って、そのお金で再建を進め、 なんと!ナント!南都!国家事業である中金堂よりも早く完成させたのであります。
平家滅亡の翌年には、堂内に新しく作った本尊を運び入れました。
この本尊を作ったのが、当時まだ無名だった運慶でした。
運慶は興福寺の別当(一番偉い人)から褒美に馬を賜りました。
焼き討ちから13年経った1194年、ついに中金堂も完成。落慶法要も5度目です。さて、あなたの興福寺”通”度合いがわかるクイズです。この一見使い回しに見える落慶法要の絵、どこが今までと違うでしょう?
正解は「屋根の上に乗っている鴟尾(しび)がない」です。
建築現場シーンも鴟尾がないバージョンになっているのです。お気づきでしたでしょうか。
鴟尾は魔除けや防火のまじないとしてつけられたものらしいですが、これだけ火事にあってんだから、まじないも効き目がないと思ってやめにした?いや、それともなんでしょう、単にもう流行らなくなったから?たしかに鴟尾は廃れます。室町時代に建てられた現存する東金堂にも鴟尾がありません。後世、天守閣にシャチホコを飾るのが流行ります。シャチホコは蘇った鴟尾なのでしょうか。去年完成した中金堂には金色の鴟尾が輝いています。
今週は「仏師運慶デビュー秘話とそして鴟尾はなくなったの巻」でございました。
ではまた来週!