新・伊野孝行のブログ

2024.9.25

歩いているうちになんとなく

軽井沢の酢重ギャラリーで個展があります(10月11日〜11月5日)。
タイトルは「歩いているうちになんとなく」。歩いているうちになんとなくいいなと思った風景を描きました。


20代の頃は印象派なんてとっくに終わった芸術運動で、いまさらあんな絵を描いてるのはカルチャースクールの生徒さんだけだ、くらいの思い違いをしていた。

印象派の後からキュビスム、シュルレアリスム、抽象、ポップアート……と覆い被さるようにいろんな流派が出てきたせいで、印象派は過激さの少ない善良な絵のように思われているが、やはり極めて前衛だと思う。

無意識が面白いとなったのはシュルレアリスムだが、非言語の世界に最初に飛び込んだのは印象派だ。
それまで風景画として描かれてきたのは、名所かピクチャレスク(まるで絵のようなエモい)な場所だった。印象派の画家たちは、歩いているうちになんとなくいいなと思った風景を描き出した。

なんとなくというのは言葉ではなかなか説明できない「なんかわからんけどいい!」というやつだ。
印象派やその少し後の絵描きたちの風景画には、ここにもここにも描かれてない絵があるぞ、と場所を見つける嬉しさがある。

ウチの近所の生垣
小石川植物園

ゴッホが拳銃を撃った日(最近は、自殺ではなく子どもの悪戯に巻き込まれて撃たれた説もある)、一番最後に描いた絵の場所が特定されたという記事を読んだ。
これがまさしく、歩いているうちになんとなくいいと思ったところなのよ。
もしもその時、ぼくがゴッホと一緒にいて、彼が急にイーゼルを立てはじめたら「え、フィンセント、君はどこを描くの?」と思っただろう。でもゴッホには「おー、ここいいじゃん」というのがあるんだ。

ゴッホ最後の作品《木の根と幹》が描かれた場所を特定。「非常に信憑性高い」(美術手帖のWEB記事)

セツ・モードセミナー時代、毎年6月に千葉の外房、大原漁港で学校を上げての写生会があった。
「もうどこでも絵になるし、どこでも描けちゃう……こんなにたくさん絵になりそうなモチーフがそこらじゅうに転がっているところなんて、おそらく日本中探してもここくらいではなかろうかと思うのである」と長沢節先生は言っていた。
先生がイーゼルを立て始めたら「先生、どこを描くんだろう?」と思う。それは友達に対しても同じだ。
ぼくがさっき素通りした風景から、先生や友達、そしてゴッホは絵を見つける。眼の前の風景の色、形、空間に絵になりそうな手応えを見いだしたわけだ。でも絵になるかどうかは描いてみないとわからない。

ゴッホの最後の絵の現場写真だけを見てもなぜここにピンと来たのか掴みづらい。でも描き上げた絵を見て納得する。ゴッホの眼と手が風景画を作り出した。喜びがみなぎっていて見ていると興奮する。とても自分に絶望している人間の描く絵じゃない。
そんな他人の眼差しに今また興味がある。

大原漁港写生会の様子

個展をやる時は、なるべく仕事で描かないような絵を描きたい。
風景画はセツ時代に描いていたが、あれから四半世紀が過ぎ、なんと50歳も通り越した。その間、試行錯誤したのか、同じところをグルグル回っていただけなのかわからないが、いろんな絵を描くように努めてきた。でも風景画は描いていなかった。
今、自分印の得意技をすべて捨てて、印象派のような眼になって風景を描いてみたらどんな絵が描けるだろう。

おそらくフツーな絵になってしまうだろう。フツーであることはつまらない……いや、それだと印象派を甘く見ていた昔と一緒じゃないか。白湯がうまいと感じる年頃になったのだ。お客さんを白湯でもてなす勇気を持とう。今までのぼくの絵と比べたら面白いところを全部ぬいたような絵なのだが、このマイナスは冒険のつもり。

会期中はずっと滞在しているわけではないので、お越しの方は一報いただけると嬉しいです。軽井沢はもう紅葉がはじまっているのではないでしょうか。去年の11月3日に訪れた時はこんなに美しかった。

2023.2.7

湯けむり絵画論!好きに見ようよ、好きな絵を(後編)

好きな絵の話をするのは楽しい。嫌いな絵の話をするのも楽しい。好きな絵のどこをどうして好きなのか、嫌いな絵のどこがどうして嫌いなのか。なんとなくで済ませるところをしゃべりあったらもっと楽しい。
昨年12月に西荻窪の今野書店で行われた、伊野孝行×南伸坊『いい絵だな』刊行記念おしゃべり企画「湯けむり絵画論!好きに見ようよ、好きな絵を」の様子をダイジェストでレポートします。司会は今野書店の花本武さんです。(なお、話の順番や発言は当日と全く同じではありません)

浮世絵というシステム

伊野孝行 歌川広重の『東海道五十三次』なんかに出てくる旅人や宿屋の女とか、好きなんですよ。あの人たち見てるとスーッと江戸時代に行けちゃうみたいな。で、鈴木春信も大好きなんですけど、春信の絵に出てくる人を見ても、江戸時代にスーッと誘われる感じにはならない。なんだか自分の知らない江戸時代なんです。むしろ異文化の人が描いた絵を楽しむようなところがあります。春信と広重は70年以上差があるからですかね。

南伸坊 浮世絵って見慣れないうちはみんな同じように見えるけど、浮世絵が描かれた時代って長いんだよね。歌麿が古今亭志ん生だとすると北斎がタモリ、写楽がたけし、広重と国芳は、又吉直樹や千鳥の大悟くらいの齢の開きがある(笑)。

伊野 それだとわかりやすい(笑)

『東海道五拾三次之内・赤阪 旅舎招婦ノ圖』(部分)歌川広重

『若衆に笠を手渡す鍵屋お仙』鈴木春信

伸坊 版元があって、絵師がいて、彫り師がいて、刷り師がいるっていう浮世絵の体制や仕組みが面白いよね。前にさ、写楽は実在してなくて、歌麿とか、他の有名な絵描きが描いてたんじゃないかってさ。

花本武 はい、そういう説がありましたよね。

伸坊 今は斎藤十郎兵衛っていう能役者が写楽の絵を描いてた、っていうのが定説になってるけど、その時分に出たいろんな説の中で、僕が面白いなと思ったのは、まったくの素人で面白い絵を描くやつがいて、版元と職人たちが結託して、そいつを「写楽」という絵師に作り上げたんじゃないかっていう説。斎藤十郎兵衛ってのがまさにその素人なんだ。

伊野 それは愉快ですね。

伸坊 素人の描いた線でも、彫り師が浮世絵っぽい線にできちゃうわけだからね。

結果的に現代美術(笑)な浮世絵師

伊野 素人をプロにしちゃえる浮世絵のシステムのすごさというか。今回取りあげる人も、そんな中で生まれてきた絵師かもしれません。歌川広景(うたがわひろかげ)という人の絵です。

伸坊 そうそう歌川広景は最初、伊野くんに教えてもらった時は、そんなに興味を持ってなかったんだけど、後でよく見たらヘンなの。浮世絵ってどんな人の絵でも、いわゆる浮世絵っぽくなってるもんだと思ってたんだけど、この人、絵の構成とかがめちゃくちゃで、ものすごくヘタなんだ(笑)。でも色とかさ、部分部分はちゃんプロっぽくなってるんだ、職人たちのおかげで。

伊野 これとかまさに。

『江戸名所道外尽 四十三 いひ田まち』歌川広景

花本 本当だ、すごいヘーン!ヘンすぎる!

伊野 建物の中に小さい人がいます(笑)。でも一回遠近感が身についちゃうと、二度とこうは描けないんですよね。

伸坊 こういうの見ると、他の浮世絵にはちゃんと遠近感があるんだなって思うよね(笑)。絵心はないけど、アイデアのある人だったんだ、広景は。

伊野 こっちも広景の絵ですが、けっこうちゃんと描けてると思いませんか?あんなにヘタな人が。

花本 普通にうまいですねー。

『江戸名所道戯尽 四 お茶の水の釣人』歌川広景

伸坊 これはね、もう「現代美術」なんですよ。

花本 え、どういうことですか?

伊野 背景は歌川広重『東都名所 御茶ノ水図』っていう絵の右半分なんですよ。で、僕はこの釣り針が鼻にひっかかってアチャチャチャチャ~!ってなってるところは広景が描いたと思ってたの。でも、実はここは『北斎漫画』にある絵なんですよ。

『東都名所 御茶之水之図』歌川広重

『北斎漫画』十二編 「釣の名人」 葛飾北斎

花本 ハハハ、パクってたんだー(笑)!

伊野 本人は何も描いてなかったりして。

伸坊 うん、おそらく……描いてないんじゃないかな(笑)下書きも描いてないかも。

伊野 広重と北斎の浮世絵を彫り師に渡して、指示だけ出すみたいな。

伸坊 パクリというより「コラージュ」や「引用」の発想なんですよ。本人は上手く描けないからパクってなんとかしたいと思ってたのかも知らないけど、結果としてウォーホルやリキテンスタインたちが発明するずっと前に「現代美術」を先取りしてたんだ。

伊野 現代美術の元祖、デュシャンの『泉』は、既製品の便器を持ってきた「レディメイド」ですから。作ってない。

花本 逆に素晴らしいですねー。いいじゃないですかー。坂口恭平さんの「建てない建築家」みたいな(笑)。

伊野 師匠の歌川広重のこともリスペクトしてなくて、単なる素材として使ってるし。

伸坊 そうそう、弟子じゃない説もあるみたいね。名前も「重」と「景」って見た目が紛らわしくて、広重って読めるようなサインなんですよ。

花本 わー、悪い奴っすね。

伊野 なりすまし、名前を騙る、ってのも現代美術的でしょ(笑)。

ヘタの進化系がうまいではない

花本 徳川家光の絵ってどうですか。やけに可愛いですよね。

伊野 可愛いですよね。何年か前に府中市美術館で初めて見た時に、将軍様の絵なのに、掛け軸がシワシワで。大事にしてこなかったんだなって。

伸坊 「こんなのもらってもなぁ……」って感じが出てたよね(笑)。

『兎図』(部分)徳川家光

伊野 伸坊さんの姪っ子のイラストレーターの下杉正子さんがInstagramに、伸坊さんのお母さん(つまり祖母)の作品を上げてらしゃるんです。お母さんが最初、自発的にへんなものを作ってるのを見た伸坊さんが褒めて、いろいろリクエストして、そのうちリクエストなしでもどんどん作るようになったという。

花本 これ素敵ですよね。

『金太郎と鬼』南タカ子

伊野 もう、ぜんぶ素敵でどれにしようか迷ったんですが。

伸坊 これはリクエストした覚えないから、自分で作ったんでしょうね。

伊野 僕はうちの父親とはまったく会話がなくて、芸術のゲの字も興味がない人なんですが、去年の正月に実家に帰った時に、絵でも描かせてコミニュケーションを図ろうと、干支の絵を描かせたんですよ。「う~ん、虎ってどんなんやったけな……」と言いながら描いたのがコレです。そして次の干支のウサギまで勝手に描いてた(笑)。

『寅』伊野勝行

『卯』伊野勝行

会場(笑)

伸坊 メガネをかけてますね、虎(笑)。

伊野 ウサギの下のまんじゅうみたいな猫はなんでしょうね。描いてて「あ、失敗した」と言っても、そのまま描いてっちゃうんですよ。

伸坊 そこがいいよね、失敗に驚かない。

伊野 顔とか、単体のものなら描けるんですけどね。「猫が堤防で釣りしているところ」って状況でリクエストすると、筆がしばらく止まってしまって、こうなっちゃうんですよ。

『釣りをする猫』伊野勝行

花本 ちょっと歌川広景的な感じありますよね。

伊野 こういうのを見せるとさ、「血筋だね」とか言われるんですけど、まったくそんなことないんですよ。ほんと、絵なんて今まで描いたことない人なんだから。皆さんもご実家に帰った時に親に絵を描かせたら、こういうものできると思います。

伸坊 大人になると、大人みたいな絵を描かなきゃいけない、こういう絵を描くと恥ずかしい、と思っちゃうようになるんですよ。

伊野 うちの母親はそっちの方で、カルチャースクールが好きで、今は水彩画教室に行ってるんですけど、けっこう器用なもんだから、どこに行ってもすぐに優等生になるんです。それでみんなからは「うまい」と褒められてる。僕もうまいと思うんですよ。でも、今じゃ、伊野家に新星が現れたので、母親の絵はすっかり霞んでます(笑)。

伸坊 みんなこういう風に描いていいんだって、思うようになればいいよね。お父さんはどうして自由になれたのかな?

伊野 自由っていうのは、知らず知らずに身に付けてしまっている考え方や技術から自由になるということだと思うんですけど、親父にはそもそもそれがないっていうか(笑)。

伸坊 最初は自発的に猫の餌皿の台に、絵を描き始めたんだよね。

伊野 そこは何か、無意識的に「描いてみたい」という気持ちがあったんでしょうね。伸坊さんのお母さんもそうですよね。

伸坊 そうなんだよね、どうして描く気になったのかってところが面白いよね。

伊野 そうやって描いた絵を見て、「俺には描けないなー」ってはじめて親父のことをリスペクトしましたね。

花本 あ、なんかいい話になってきたぞ。

伊野 いやいや(笑)ま、ヘタの進化系がうまいじゃないと思うんですよ、絵の場合。子どもの進化系が大人でもないと思う。なんか自分はそこからやってきたような、でもそこには戻れないような場所。ヘタな絵は僕にそんな気にさせますね。

伸坊 なんでこういう絵をおもしろいとか、いいなとか思うのか。そこはものすごく重要なとこだよね。

 

(おわり)

2023.1.26

湯けむり絵画論!好きに見ようよ、好きな絵を(前編)

好きな絵の話をするのは楽しい。嫌いな絵の話をするのも楽しい。好きな絵のどこをどうして好きなのか、嫌いな絵のどこがどうして嫌いなのか。なんとなくで済ませるところをしゃべりあったらもっと楽しい。
昨年12月に西荻窪の今野書店で行われた、伊野孝行×南伸坊『いい絵だな』刊行記念おしゃべり企画「湯けむり絵画論!好きに見ようよ、好きな絵を」の様子をダイジェストでレポートします。司会は今野書店の花本武さんです。(なお、話の順番や発言は当日と全く同じではありません)

見れば見るほど不思議な彫刻

花本武 今日は『いい絵だな』の二人の著者、伊野孝行さんと南伸坊さんをお招きしています。もうこの本ほんと良くて、人間それぞれの「私にとってこういうのがいい絵なんだよな」を巡る語らいが興味深いんです。きっとお二人にはまだまだこの本で語ってない絵があるに違いありません。というわけで、どのへんからいきましょうか。

伊野孝行 朝倉文夫の『滝廉太郎君像』とかどうですか。『いい絵だな』のトークなのにいきなり「絵じゃねえじゃん! 」って思ってる方もいるかもしれませんが(笑)、この彫刻はある意味、絵画的なんです。

南伸坊 前に「朝倉彫塑館」に行った時にね、『滝廉太郎君像』を見て、すごく興奮したんですよ。「これ彫刻の大発明じゃん!」て。朝倉文夫すごいよ、朝倉世界一だよって(笑)。どこに驚いたかって言うとさ、眼鏡をかけた人を彫刻で作る時って、普通はメガネだけを別に作ってかけさせますよね。でも滝廉太郎の眼鏡はちょっと妙な感じなんですよ。眼鏡が顔と一体化してて、その眼鏡に透明なレンズがはまっているように見える。

『瀧廉太郎君像』 朝倉文夫

花本 ほんとだー。

伊野 僕もこのあいだ、上野の「旧東京音楽学校奏楽堂」に見に行ったんですよ、調べたらそこにも複製があるらしいんで。で、確かにレンズが入ってるように見えるんですよ。

伸坊 レンズを通すとその向こう側が歪むよね。あの感じをそのまま立体にしてる感じなの。自分の目がおかしいのかな?って思ったんだけど、何度見てもヘン。

伊野 特に左側は角度変えて見ても、レンズが反射してるように見えますよね。


伸坊 だけど朝倉彫塑館の人に聞いてみても「それは知りませんでした」って感じなんですよ。普通だと、もし朝倉文夫にそういう制作意図があった場合、キャプションに説明が書いてあるもんなんですが、なかったんで、俺の勝手な思い込みかもしれないけど(笑)。でもとにかく不思議なんですよ。

伊野 伸坊さんに言われなきゃ、全く気にして見なかったと思いますね。むしろ眼鏡と目の間に粘土が詰まってるよ、くらいに思ってたかも知れません。角度変えて見ていくとまた面白いんです。「あ、ここが一番レンズっぽさが出る!」とか。彫刻は360度どこからでも鑑賞できるはずだけど、透明なレンズとして見るにはある程度、角度が限定されますから。「絵画的な彫刻」と言ったのはそういうことです。

伸坊 昔の大理石の像なんかでも、瞳の一番中心部分を少しくり抜いて、上から光が当たると、瞳の真ん中が黒く見える。計算して作ってるんですね。だから彫刻の世界ではそういう工夫は案外あるのかもしれない。彫刻ってあまりマジマジと見たことないけど、朝倉彫塑館はものすごく近くで見れるんですよ。だからなんかヘンだなって気がついたの。

伊野 僕が見に行った時も、誰もこの彫刻見てないのでマジマジ見れました。

花本 人にもそれぞれありますもんね、「私は横顔がかっこいいから、この角度から見てとか」(笑)。そういう彫刻なんでしょうね。『いい絵だな 彫刻編』もどうですか。

伊野 いや、どうだろう(笑)。今日お見せしたのは写真ですけど、人間の目だからこその見え方っていうのもあるのかな。皆さんもぜひ実物をご覧になってください。

ピカソの秘密

伸坊 ピカソが12歳で描いた石膏デッサンがあるんですけどね。

伊野 はい、そのデッサンはピカソの著作権がまだ生きてるということで、見せられないらしいんですが(笑)、「ピカソ Torso」で検索するとフツーに出てきます。いや、検索する必要はないかな。この『シャルル・バルグのドローイングコース』の右側の絵と全く同じ絵が出てくるので。

『シャルル・バルグのドローイングコース』

伸坊 これは有名なデッサンの教則本なんですね。ゴッホなんかも使ってたという。ここでは影の形を平面的に大まかに捉えて描きなさいってデッサンの描き方が示されているんです。こういうやり方は日本の学校じゃ教えない。自分でわかるまで描けって感じで。大づかみに捉えろとは言われるんだけど、影の形を見ろとは言われない。人間の目で見てる立体のものを、平面に置き換えるのはすごく難しいんですよね。

伊野 ピカソはデッサンがうまかったのは確かですけど、実はすでに平面になってる教則本を写してることもあったということですね。それを知らないと必要以上に神格化しちゃう。

伸坊 つまりね、人間の目は見るたんびに違うところを見ちゃうんですよ。だから不正確になる。本当はポラロイド写真を横に貼り付けておいて、それを見ながら描いた方が上手く描ける。でも、それじゃ勉強にならないって考え方なんだよね。

伊野 そう、今の藝大や美大を受験する学生さんは、スマホで一回石膏像をパシャって撮って、それ見ながら描くほうが理にかなってる。そんなことやったら失格になるかもしれないけど。向こうの人は平面から平面に写すやり方もやってたんですよ。そもそもこういうデッサンは人間の目をカメラの目にするための訓練で、カメラが発明されたら本当は必要ないんです。日本の場合は悲しいことに「受験産業」として残っちゃってて。ま、私は美大にも行ってないし、石膏デッサンで苦労したこともないんですけどね……。

花本 あら、急にひがみみたいになってますけど。

伊野 ひがんでないよ!(笑)

ルーベンスのビーナスを好きになってみる

伸坊 オレ中学生の時からルーベンスの裸が嫌いでさ(笑)。「なんでこんな太ったおばさんをビーナスにして描いてるんだろう?」って思って見てたんですよ。

伊野 いや、僕も伸坊さんにこの絵を教えてもらって、「うわ~っ、すごいな」ってある種、ヘンタイを見る目つきで眺めてたんですけど、昨日、この絵をじっくり見て、好きになろうとしてたら、だんだん好きになってきたんですよ。

伸坊 それは伊野くんもヘンタイだったってことだね(笑)。

『三美神』(1630年~1635年)ピーテル・パウル・ルーベンス

伊野 絵って最初大まかに描いていって、細部を描くときが、画家にとってもお楽しみの時間なんです。真ん中の人のお尻に薄物のレースみたいなのが挟まってるじゃないですか。痩せてるお尻だっら挟まらないでしょう。ここを描いてる時、ルーベンスは幸せだっただろうな……って。あと左の人の腕を掴んで「あら、あなたもいいお肉ついてきたわね」って見てる顔なんですよ。そういうのに感心してるうちに、だんだん好きになってきて、星「4.5いい絵だな」くらい行ってます。それはアングルの絵と見比べてたから、っていうのもあるんですけどね。

伸坊 確かにアングルに比べたら、面白いよね。

『泉』(1820年~1856年)ドミニク・アングル

伊野 この『泉』はすごく有名な絵で、アングルの傑作って言われてて、制作期間も長い。だけど、なんにも面白くないですよね。画面のどこを探しても「好きの衝動」がないってうか。理想的な裸体ってことで描いてるけど、個人の好みを排除したそういう非人間的なとこがやらしいと言えばやらしい。壺から流れる水も池に落ちて、ポンプで汲み上げてまた壺から出てくるみたいな生気のなさっていうか(笑)、飲みたくない感じ。花にしても、ルーベンスは自分のビーナスたちが脂の乗ったブリのお刺身だとすると、ツマの役割果たしてるけど、アングルのこの水仙の侘しさたるや。

花本 嫌いじゃないっすけどね、この水仙の感じ(笑)。

伊野 僕は「セツ・モードセミナー」って学校に行ってたんですけど、校長の長沢節が痩せた人が好きで、ゴツゴツした骨っぽい人ばっかり絵に描いてたし、エッセイでも、例えば細い足首のことを執拗に褒めるんです。「くるぶしのトンガリ!靴を脱いだ時に現れるかかとが、まるで小さな玉ねぎみたいでセクシー!」みたいなことを。それまで、僕は人間の顔くらいしか好みってなかったんだけど、だんだんこっちも洗脳されてきて、そういうところに目がいっちゃう。それくらい作家の情熱的な「好き」が人をいざなう力ってすごいんじゃないかって。だから「ルーベンス・モードセミナー」に行ってたら、僕はこういう女性が好きになってた可能性もある(笑)。

花本 好きだなって気持ちがこのお尻にさせたんですね。

伸坊 うん、それはわかるね。ルーベンスはカメラオブスクラを使ってない描き方だよね。イタリアに憧れて、8年くらい滞在して向こうの彫刻なんかをいっぱいデッサンして、影のつき方とかは、見ないでも描けるようになったと思いますね。

伊野 見ないで描く方が自由に絵が作れる利点もあります。カメラオブスクラを使った絵はどっか固いんですよね、印象が。

伸坊 デイヴィッド・ホックニーが『秘密の知識』って本でも明らかにしてるけど、アングルは明らかにカメラオブスクラを使ってるね。クラーナハは洋服とか装身具の質感がすごくキレイ。そういうのは忠実に描いてる。おそらく注文主を喜ばしてやれって、そこが売りだったと思う。でも人体のプロポーションは歪めてて、それがエロくなってる。エロティシズムでフェティシズム。

『三美神』 (1531年) ルーカス・クラナッハ

伊野 同じ『三美神』でもえらい違いますね(笑)。

花本 さっきからお話に出てる「カメラオブスクラ」ってどういうものですか?

伊野 カメラオブスクラの原理をイラストに示したものが下の絵なんですが、まだ写真のようには印画紙に図像を定着できないんですけど、プロジェクターのように写すことができる。こういう装置はルネサンスの頃から使われるようになったみたいです。よく伸坊さんは、カメラオブスラを説明する時に、雨戸の節穴を通って外の景色が映る話をされますが、雨戸がサッシだったんでそういう経験がなくて。

『カメラオブスクラの原理』伊野孝行

伸坊 ああ(笑)。外の道に人が歩いてたりするの光景が、雨戸の節穴を通って逆さに映るのね。そういう現象っていうのはものすごい昔から知られてたみたい、紀元前とか。それを光学装置にしたのがカメラオブスクラなんです。それまでは人間が両目で見てる3次元の世界を平面に写すのがすごく難しかったんですよ。カメラオブスクラによって3次元が一つのレンズを通して平面になったわけですから、要は写真ですよね。それを手がかりに絵を描き始めると、そこからガラッと写実的になるんですね。

光の詩情を描く

花本 カメラオブスクラを使ってる画家はズルしてるっていう気持ちはあったんですかね?

伸坊 ズルというか、人を驚かせるための道具っていうか、手品のタネみたいなもんすよね。だから秘密にされてたみたい。

伊野 ピンホールカメラやカメラオブスクラが映し出す図像って、ちょっとボーッとして光が柔らかくて、独特の雰囲気ありますよね。このフェルメールとハンマースホイの絵、どちらもとっても光が美しいです。伸坊さんは前に「カメラアイの光の詩情に反応している」と書いてて、うまいこと言うなあと。

伸坊 そんなエラそうに書いてたっけ(笑)

花本 ちょっと恥ずかしそうですね(笑)

『ヴァージナルの前に立つ女』(1670年~1672年ごろ)ヨハネス・フェルメール

『背を向けた若い女性のいる室内 』(1903年~04年) ヴィルヘルム・ハンマースホイ

花本 フェルメールとハンマースホイもカメラオブスクラ使ってた派ですか?

伸坊 ハンマースホイの時代はもう写真が発明された後だから、わざわざカメラオブスクラは使わないと思うんだけど、「光の詩情」っていうのも、カメラで写真を撮って、印画紙に定着できたことによって、光の階調の美しさがわかったってことがあると思うんです。フェルメールはカメラオブスクラですが、光の微妙な移り変わりに気が付いた。カメラオブスクラはデッサンの補助道具として利用されてたんだけど、みんな形を追う事に精一杯で、光の微妙な移り変わりを気にしてる暇がないっていうかね。

伊野 よく、印象派が光を感じ、光を描き始めたって言われるけど、西洋美術はもともと光と影。フェルメールのように敏感な人もいた。人気の理由はその辺にあるのかもしれないですね。

伸坊 ハンマースホイはピンボケの写真も絵にしてるんですよ。ピンボケの状態って近眼の人はボヤけてそう見えるってのはあるわけだけど、それを絵にしようと思ったのはやっぱり定着したものがあったからだと僕は思うんだけどね。

伊野 『いい絵だな』の感想として「伊野さんと南さんはヘタな絵が好きで、リアルな絵が嫌いなんですね」というのもあったんですが、そんなことはないですよね?

伸坊 そんなことないですよ(笑)、形が取れたことで安心しちゃってるような絵が面白くないってことで。

(後編につづく)

2022.10.5

『いい絵だな』発売!

本日10月5日、集英社より無事『いい絵だな』が発売になりました。(発行は集英社インターナショナル)
南伸坊さんと私による、ゆるくて刺激的な絵画談義です。

装丁は南伸坊さん。帯より上には著者名もタイトルもないデザイン。気持ちいい。

帯をとるとさらにすっきり。カバーに使ってる絵はアルベール・マルケ 。

書店の美術書コーナーには、絵の背景や画家の生い立ちを詳しく語る本がたくさん並んでいます。
美術の教養を得る喜び。絵を見ているだけではわからない事はたくさんあります。
また「絵ってどうやって見ればいいの?」という人には「絵の意味がわかれば面白くなりますよ」というアドバイスも有効でしょう

…でもそれって本当に「絵を見る」ことになるのかな?
いや、何もそういった教養を否定したいわけじゃないんですが、ただ絵を見るだけでわかることってたくさんあるんですよ。
帯の言葉をいただいた山田五郎さん(美術系youtube「オトナの教養講座」で絶大な人気)も、留学してた時、授業よりもヨーロッパ各地の美術館でひたすら絵を見たことが自分の土台になったとおっしゃっています。
僕も伸坊さんも絵を見ることに関しては、真剣に見てきたと思います。美術館の絵だけじゃなく、雑誌のカットも、素人の落書きも、おしなべて真剣に見てきた。
あと僕らは絵を描いてきました。絵を描くことで作られていく回路があるように思います。

世の中では「デッサンは絵の基本」と言われていますよね。僕もそう思っていました。藝大や美大に入るには石膏デッサンの試験があるし、それでふるいにかけるんだからそうなんだろうと。ピカソはキュビスムでめちゃくちゃな絵を描いてるけど、若い頃は神様のようにデッサンが上手いです。
ところが自分で絵を描きはじめると、デッサンが上手く描けることと、ピカソの絵はどう繋がっているのか、自然に疑問を持ちはじめます。抽象画の画面のどこを探してもデッサンなんて見つかりません。それでも「デッサンは絵の基本」なんでしょうか?
本書ではそういう、絵を描いてるうちに思った疑問から入っていきます…
おっと、その前に、絵を見て感激したり、面白い!と思ったとから話は始まるんだ。

この扉の絵は伊野孝行作「高橋由一の肖像画」

第1章は高橋由一から。高橋由一は写実的な表現で本格的に油絵を描いた、日本洋画の始祖ですが、次の世代の画家に比べるとそんなに技術は高くない。
…そこまでだったら教科書的見解です。僕らにとっては、由一の絵は日本絵画史上最高に、写実表現を描く喜びに溢れた絵であります。もう、嬉しさがさ、滲み出てるんですよ、画面から。
絵は描く人の気持ちがそのまま表れます。不思議ですね。まず、そこをちゃんと味わいたい。
高橋由一以前にも、以降にも写実表現を取り入れようとした画家がいます。第1章の高橋由一を起点に、話は江戸時代や近代や海外に転がりますが、みんな「絵を見ることでわかること」のみで繋いで話しています。絵は他の絵に影響を受けるわけなので、絵自体が他の絵の解説にもなっているんです。

『いい絵だな』というタイトルは編集の松政さんが考えてくれました。実はタイトルをつけるのに難航していたのですが、松政さんの口からこのタイトルが出た瞬間、「それだ!」となって、カバーのアイデアもすぐに決まりました。

僕は絵の意味や背景を知ることも面白いと思うけど、まずは言葉から離れて絵を見ることが、何よりも決定的に重要だと思うんです。
絵の意味を知るのはその後でいい。意味は脱衣所で脱いじゃいましょう。裸になって首までお湯に使って「あ〜いい湯だな」ってため息ついて、その後でお湯の成分や効能が書かれたプレートでも読んだらいいじゃありませんか。
そっちの方が、正しいお風呂の入りかた、いや、絵の見方だと思うのです。

この本を出すの長年の夢でもありました。
さかのぼる事12年前。はじめて伸坊さんと時を忘れて夜更まで話し込んだあの日。
本来、本を読んだ後のデザート的存在な「あとがき」ですが、当ブログの読者様にだけ特別に公開します。

この画像はサイズがでかいので読めるはず

集英社インターナショナル『いい絵だな』ページはコチラ!冒頭部分立ち読みできます。