新・伊野孝行のブログ

2024.9.25

歩いているうちになんとなく

軽井沢の酢重ギャラリーで個展があります(10月11日〜11月5日)。
タイトルは「歩いているうちになんとなく」。歩いているうちになんとなくいいなと思った風景を描きました。


20代の頃は印象派なんてとっくに終わった芸術運動で、いまさらあんな絵を描いてるのはカルチャースクールの生徒さんだけだ、くらいの思い違いをしていた。

印象派の後からキュビスム、シュルレアリスム、抽象、ポップアート……と覆い被さるようにいろんな流派が出てきたせいで、印象派は過激さの少ない善良な絵のように思われているが、やはり極めて前衛だと思う。

無意識が面白いとなったのはシュルレアリスムだが、非言語の世界に最初に飛び込んだのは印象派だ。
それまで風景画として描かれてきたのは、名所かピクチャレスク(まるで絵のようなエモい)な場所だった。印象派の画家たちは、歩いているうちになんとなくいいなと思った風景を描き出した。

なんとなくというのは言葉ではなかなか説明できない「なんかわからんけどいい!」というやつだ。
印象派やその少し後の絵描きたちの風景画には、ここにもここにも描かれてない絵があるぞ、と場所を見つける嬉しさがある。

ウチの近所の生垣
小石川植物園

ゴッホが拳銃を撃った日(最近は、自殺ではなく子どもの悪戯に巻き込まれて撃たれた説もある)、一番最後に描いた絵の場所が特定されたという記事を読んだ。
これがまさしく、歩いているうちになんとなくいいと思ったところなのよ。
もしもその時、ぼくがゴッホと一緒にいて、彼が急にイーゼルを立てはじめたら「え、フィンセント、君はどこを描くの?」と思っただろう。でもゴッホには「おー、ここいいじゃん」というのがあるんだ。

ゴッホ最後の作品《木の根と幹》が描かれた場所を特定。「非常に信憑性高い」(美術手帖のWEB記事)

セツ・モードセミナー時代、毎年6月に千葉の外房、大原漁港で学校を上げての写生会があった。
「もうどこでも絵になるし、どこでも描けちゃう……こんなにたくさん絵になりそうなモチーフがそこらじゅうに転がっているところなんて、おそらく日本中探してもここくらいではなかろうかと思うのである」と長沢節先生は言っていた。
先生がイーゼルを立て始めたら「先生、どこを描くんだろう?」と思う。それは友達に対しても同じだ。
ぼくがさっき素通りした風景から、先生や友達、そしてゴッホは絵を見つける。眼の前の風景の色、形、空間に絵になりそうな手応えを見いだしたわけだ。でも絵になるかどうかは描いてみないとわからない。

ゴッホの最後の絵の現場写真だけを見てもなぜここにピンと来たのか掴みづらい。でも描き上げた絵を見て納得する。ゴッホの眼と手が風景画を作り出した。喜びがみなぎっていて見ていると興奮する。とても自分に絶望している人間の描く絵じゃない。
そんな他人の眼差しに今また興味がある。

大原漁港写生会の様子

個展をやる時は、なるべく仕事で描かないような絵を描きたい。
風景画はセツ時代に描いていたが、あれから四半世紀が過ぎ、なんと50歳も通り越した。その間、試行錯誤したのか、同じところをグルグル回っていただけなのかわからないが、いろんな絵を描くように努めてきた。でも風景画は描いていなかった。
今、自分印の得意技をすべて捨てて、印象派のような眼になって風景を描いてみたらどんな絵が描けるだろう。

おそらくフツーな絵になってしまうだろう。フツーであることはつまらない……いや、それだと印象派を甘く見ていた昔と一緒じゃないか。白湯がうまいと感じる年頃になったのだ。お客さんを白湯でもてなす勇気を持とう。今までのぼくの絵と比べたら面白いところを全部ぬいたような絵なのだが、このマイナスは冒険のつもり。

会期中はずっと滞在しているわけではないので、お越しの方は一報いただけると嬉しいです。軽井沢はもう紅葉がはじまっているのではないでしょうか。去年の11月3日に訪れた時はこんなに美しかった。