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2020.11.3
古代チャンチャン
今週は、UCカードの会員様に届けられる雑誌「てんとう虫」で連載中の小和田哲男さん『「新訂」日本の歴史』より。この連載は好評につき第2シーズンに入っております。
「新訂」というのは、学生時代に教科書で習った歴史も、その後新事実が明らかになり、今は違ってますよ、ということです。
しかし、今も昔も大昔も変わらないことがあります。それは公の記録を都合のよいように書き換えること。本日は奈良時代に行われた歴史書き換えの二本立てです。
■任那日本政府は存在しなかった
「日本書紀本日発売!」と本が平積みされているのは、奈良時代の書店です。今と同じような本の売り方をしてたんですねぇ。
……なわけないですが、『日本書紀』にはヤマト政権が朝鮮半島南部を支配していたという記述があります。最近の研究ではこれあやしくね?となっております。
大和政権が朝鮮半島に軍勢を送り、新羅を討ち、百済との連合によって任那七カ国を平定し、そこを直轄領として、支配のための拠点として置いたのが任那日本府。でも、実際のところ、日本は任那の中の一つの国である安羅国と同盟していて、任那日本府という外交団駐在所を置いてるだけだったんじゃね?と。
つまり、明治以降の朝鮮総督府みたいなものではなくて、安羅に置かれた大使館のようなものだった。それをヤマト政権の力を誇示するために『日本書紀』にはオーバーに書いたのでしょう。
実際よりおおげさに書く、つまり誇大です。古代だけに。チャンチャン!
■大化改新の詔は書き換えられていた
こちらも同じ『日本書紀』の書き換え案件。同時代の書き換え案件が2回続いたので、私もネタに困ってしまいまして、「大化改新」を「詔を新しく書き改める」という意味にしてお茶を濁しました。
「ムジコの世作り大化改新」とか「ムシゴロシの大化改新」とかの語呂合わせで覚えたやつです。
『日本書紀』では大化二年の元日に、四カ条からなる改新の詔が発布され、これをベースに様々な改革が行われた、と記述されています。しかし、最近の研究では、大化改新の詔があったことは事実だけど、内容はだいぶあやしくね?となっています。
大化改新という大々的な政治改革が行われたように書いてあるけど、実際は大化改新から大宝律令の制定に至るまでの間に、時間をかけて政治改革が行われていたはずだと。それを『日本書紀』編纂者(律令国家の為政者たち)は、大化改新よりだいぶ後の天武天皇の時代に出されたいくつかの法令を、あたかも改新の時に出したかのようにしてしているんじゃね?と。
これもまた、実際よりおおげさに書く、つまり誇大です。古代だけに。チャンチャン!
2020.3.17
奈良の宇宙芸術!
先日、奈良に行ってました。
東大寺二月堂の修二会を見てきました。
「お水取り」という名で知られるこの法会、国宝のお堂で、燃えさかるでっかいお松明をぐるぐる回したり、担いだまま走ったり、火の粉を撒き散らしたりするのがメインイベントかと思っていましたが、違ってました。
この松明、もとは片手で持てるサイズで、練行衆(修二会を行う僧侶)がお堂に上がる時に、足元を照らすための実用的な照明でした。こんなに巨大化したのは江戸時代からなんだって。
しかし、驚くのはそこじゃなかった。
お堂の中ではすんごい法要が長時間に渡って行われていた。
人間の声、打つ音、鳴る音の構成がすごい。静寂、騒がしさ、ときおり現れる強烈な動!がすごい。そして法要の最後の方にある「達陀の行法(だったんのぎょうほう)」は、今までの人生で見たものすべての中で、ナンバーワンなんじゃこりゃぁあ!だった。
見た者は興奮を隠せない。
神秘な宇宙芸術!
いや〜……スゴかったな……1200年以上続くこの行事、短い自分の人生と交わったことが一つの幸福であります。
修二会の報告をするには、私はあまりに力不足で無力です。それに、今週は時間がないしなっ。というわけで、二月堂からの美しい夕焼けでサヨウナラ〜。
奈良でお世話になった方々に感謝いたします。
2020.3.3
歴史にパンチ!歴史にポンチ!
インフルエンザにかかったことがない。
ここ7、8年は風邪もひいたことがない。その前は年に一度くらいは風邪をひいていたもんだが。めちゃめちゃ免疫力が高くなっているのだろうか……そんなプチ万能感にひたっていたが、思い返せば、8年前にバイトをやめている。イラストレーターを専業にすると家にいることが多いので、結局は風邪をうつされる機会が減っただけなのでは、という結論に至った。
あ、そうそう。京都の嵯峨嵐山文華館で開催中の「百人一首って」展も3月2日〜17日まで臨時休館。21日に予定されていたトークショーも中止となりましたので、ご報告申し上げます。
日本にやってきた画家チャールズ・ワーグマンが1862年に創刊したのが「ジャパン・パンチ」。雑誌名はイギリスの風刺漫画雑誌「パンチ」に倣った。
そこで描かれた滑稽で風刺の効いた絵を「ポンチ絵」と呼ぶようになった。ところで「平凡パンチ」のパンチはただのグーで殴るパンチの意味なんでしょうか。
今週は、ポンチ絵描きのはしくれの、最近の仕事でも紹介して終わることにしましょう。
雑誌「てんとう虫」で連載されている小和田哲男さんの「新訂 日本の歴史」に絵をつけています。歴史の授業で習ったことも、今はそうじゃないってことが結構あります。
●歴史の授業で日本最古の通貨と教わった和同開珎。しかし、幻の通貨とされていた富本銭(ふほんせん)が数多く出土されて、今ではこっちが最古の通貨になっている。2行に要約すると、コラムの内容はそういうことでした。ポンチ絵師はない頭を使ってどう描く?
物々交換で、稲や布などが銭貨の代わりだったのを、唐に倣って貨幣経済を実現しようとしました。その1300年後、我々はまた中国に倣おうとしています。
●1192年が鎌倉幕府の成立で「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と教わったけど、幕府の骨格、実質的な支配機構を考えると、1185年「イイハコ(箱)」説が主流になりつつあるようです。ポンチ絵師は知恵がないので、そのまんま箱の展開図にしてみました。
●源頼朝の肖像画が、実は源頼朝じゃない、というのも最近は確定的になっている。
いかにも源頼朝ってこんな人だったかもな〜って感じしてたけど。あれは誰かというと足利直義(足利尊氏の弟)。そうすると足利直義がなかなかの雰囲気の人だったんですね。足利尊氏の肖像画も実はあれは高師直(こうのもろなお)って人なのではないかという説が強い。
武田信玄も全然違う顔らしいね。
黒澤明の「影武者」は勝新太郎をという役者を使ってみたいという理由以外に、武田信玄の肖像に勝新太郎がよく似ているということもあったはず。つまり、武田信玄の肖像画が別の人だったら勝新にオファーしなかったかもしれないですよね。
勝新VS黒澤事件はもうずいぶん前のことですが「てんとう虫」の読者年齢層的にはつい昨日のようなことだと思って描きました。
●神仏も恐れぬ所業で大殺戮を行った残忍非道な激情家、織田信長。
比叡山延暦寺焼き討ちは有名です。「信長公記」にも同時代の人の日記にも、そのヒドさが記されている。
しかし、後の発掘調査で明らかになってきたことは、比叡山焼き討ちは小規模だったということ。「全山の諸堂が紅蓮ぐれんの炎に包まれ、大殺戮がくりひろげられた」とするイメージからはほど遠いということが浮き彫りになってきたらしい。
では山科言継や宮中の女官が書いた日記は嘘だったということか。
いや、京都から比叡山はよく見える。夜空を焦がす火を見れば、相当焼けてるなと思っても不思議じゃないし、噂には尾ひれがつく。
そういうこと今もよくあるよね?
●織田信長が武田勝頼を破った長篠・設楽原の戦い。中世的騎馬軍団VS近世的鉄砲隊の戦いということで「信長の鉄砲革命」とも言われてきた。
いや、それもちょっと待った!
その理由を書くのはこのブログの役目ではないので書かないが(笑)テレビや映画で見てるイメージとはだいぶ違うみたいよ。
2020.1.20
鬼門と裏鬼門
先週の金曜日、京都の「嵯峨嵐山文華館」に「百人一首って」巡回展の搬入立ち会いに行ってきました。
2階にあるめちゃめちゃ広い畳のギャラリーで展示されます。
いろんなサイズで、飾り方もまちまちな100点を配置するのは嵯峨嵐山文華館としてもはじめてのこと。壁に釘が打てなかったり、いろいろ制約のある中で、相談しながら設置方法を考えました。ガラスケースの中(3割り増しで立派に見える)の壁に飾るので、キャプションの文字が読みにくい問題もクリアしなければなりません。
絵を飾りつける作業はクロネコさんたちがやってくれます。プロの手際に感心して眺めているだけなんですが、夕方5時過ぎに我々が帰るときには、まだ4分の1しか終わっていませんでした。展示は29日からですので、きっと大丈夫でしょう!(先刻、搬入作業無事終了のお知らせがありました)
さて、先週のブログで書いた「銭湯めぐり」ですが、もう修理にきてもらって、お風呂は普通に入れております。「銭湯めぐり」は3軒で終わりましたが、銭湯ってほんといろいろでしたね。レベルが。同じ値段でこうまで違うかよって。家の近くにいい銭湯があることは幸せです。
Eテレ趣味どきっ!「ニッポン神社めぐり」で放送が終わった絵を載せて、今週は終わりにしましょう。
出世のご利益がある日枝神社は永田町にあります。山の上って感じのところにあるんです。
日枝神社の御祭神は「大山咋神(おおやまくいのかみ)」。
〈大山咋神は日枝の山に坐し、また松尾に坐し、放つと音が出る矢を持つ神である〉
古事記にはそう記されているだけなんだそう。どこが出世なんかな?
まぁ、こういう伝承があるらしいんですわ。
昔むかしのその昔、タマヨリヒメという女神がおったそうじゃ。ある日、タマヨリヒメは小川で朱色の美しい矢を拾った。
タマヨリヒメは矢を持って帰って、寝室に飾って毎日眺めながら眠った。すると知らないうちにタマヨリヒメは身籠っておったのじゃ。
タマヨリヒメの出産に父は喜び、7日間夜通しで宴を開いた。そして子どもに自分の父だと思う者に酒を注ぐように命じた。生まれたばかりの赤ん坊が酒を注ぐのかと思うじゃろ?注ぐんじゃ。
子どもが盃を捧げると、雷鳴とともに天に浮かび上がったのが大山咋神じゃった。
ふむふむ、そういう話があるのか。まだ「出世のご利益」にはつながらないけどね。
日枝神社のある場所は江戸城から見て裏鬼門。鬼門とは鬼が入ってくる方向(東北)とされる。裏鬼門は鬼門と反対の方角(南西)にあり、鬼が出て行く方向。
昔むかしのその昔、中国に度朔山(とさくさん)という山があり、そこには鬼が住んでおったそうじゃ。
山には大きな桃の木でできた門があり、鬼たちは夜になると門をくぐって人間界に出入りしておった。
門には二人の門番がいた。人間に悪さをした鬼を見つけると、捕まえて虎の餌にしてしまうのじゃ。門番たちによって人間界の平穏は守られておった。
この鬼たちのが入ってくる方角が「鬼門」鬼たちが戻って行く方角が「裏鬼門」じゃ。
日枝神社のある場所は江戸の町の中では高い山の上。山の上から江戸の町を守るために山の神さま大山咋神が祀られた。しかし、これがいったいなぜ出世のご利益と結びつくのか?
江戸時代の庶民は生活していくだけでも精一杯だった。江戸から東京になって、文明開化の世になり、この付近は政治やビジネスの中心地になってきた。山を守る神、農耕の神の側面はだんだんなくなっていった。
山の神様は大地を支配し、土と水を司り、地盤を固める。そこから仕事の足場を固める、出世をもたらす神様として、現在では見られるようになった。さらに大地を支配することは万物の成長を見守ることにもなるからのぉ。時代に合わせたご利益を持つようになった、というわけじゃ。
ふ〜ん、そうなんだってさぁ。
神社のご利益の由来を何回かに渡って番組で見てきたが、へぇ〜!と膝を打つような説得力はあまりないかもしれない。でも日本という国がどうのように変化してきたかを神社のご利益から知ることができるのである。今夜も放送があるはずなので見てみよう。